宗教における宗教性を追求している。しかしこれも簡単な話で、秘め事を作ればいいだけの話である。その一つに現代では儒教が残っているだけのことである。神道も仏教もかつては秘め事だらけであった。とりわけ鏡は不思議であったと思う。どのようにして作るのか、また、作り方を知ったとして、技術面での困難が残る。そこで鏡に対し祈りを捧げるしかなくなり、祈りながら金属をひたすら磨くのである。


私も経験があるが、磨きの作業も最後は祈るしかない。「輝け!」と言い聞かせながら、ピカールで銅や銀をひたすら磨く以外に方法がない。これを続けることで自分の顔が投影されるようになるが、この原理について科学の力では解くことはできないという。有名な理学者にも尋ねてみたが、祈りが輝きを増すとしかいいようがないと言っており、ここに宗教なるものが発生する。ところが、鏡は今や百円均一ショップで売られており、アマテラスもびっくりな時代となっている。行き着くところまで行ってしまっている状態では、宗教性が損なわれるのは当然の事である。


ところで、鏡が100円で購入できるこの時代、もう一人の自分を誰もが知ることができるようになっている。もう一人の自分はいつも同じ場所に存在し、常にもう一人の自分を携行する世の中となっている。つまり、鏡を作る技術にかんしての問題は解決されているが、自分の影を常に引きずる困った世の中となっている。


鏡とは何かを考える時、現在の八咫の鏡を見ても理解できるであろうが、もう一人の自分が映らないから鏡としての役割を果たすのだろうと思う。つまり、錆であるが、錆びることにより自分自身で自分を見ていこうとするようになる。現代の日本では「侘び寂び」が重視されるが、過去は逆で、新品が重宝された。仏像も金箔でコーティングされた、ド派手なものである。それではもう一人の自分に出会えなくなるので、いつの頃からか侘び寂びがいわれるようになる。ここが日本人的な知恵であろう。


よって、現代の神社には金属製の錆びた鏡を祀るべきであり、その意味を社会に向かって発信するべきである。時代が下れば投影可能な現代的な鏡を祀ることになるであろう。このサイクルが宗教を血の通った形に仕立て上げるのである。


その意味で儒教における易経は占いであるので、ほぼ永遠に秘め事が保たれる。ここがポイントである。よって、秘め事を作り続けることが宗教としての使命であることが理解出来よう。


易経がなぜ当たるのかは科学的に証明されていない。よって、私も含め様々な分野の科学者達がこの謎に挑戦し続けるが、未だその解明には至らない。そしてそこから導き出されるのは、ことごとく人間の道徳についての教訓という、形而上の根本原理となる。つまり、ユング派心理学で意味するところの元型を知ることになる。ここを理解できなければ易経の謎はおろか、儒教の謎に迫ることはできない。しかしながら、我々は既に元型は音叉音であることを発見している。よって、易経の謎の解明にも大きくリードしていることになる。ここに学者としての満足感を得ているのが私である。このような状態を自己満足という。


鏡があれば影を知ることはできるが、それを人に伝えることはできない。また、鏡では影しか見ることができないという難点がある。よって音により元型に接近し、絶対的な正しさを知ったうえで他者にそれを伝えることにより、個性化を実現させる。


では、音ではない人間の根本原理としての易経とは何かといえば、音を必要としない元型である。つまり、元型には64タイプ、384の男女のタイプがあるのではなかろうかと思われる(ユングには申し訳ないが・・・)。バーコードのように表現される易経の「卦」であるが、あのバーコードこそが人間の正解を表出化しているとなると、元型はやはりデジタルであることを知ることができよう。あれを音にすると音叉音になる。このような考え方である。


ここからすると、バーコードを読むにはバーコード・リーダーが必要となる。よって、記号や文字化されたものを解読するにはバーコード・リーダーのような機械人間が必用となる。それはやはり学者の仕事であろう。これをより広く知らしめるには、音楽を通じてとなろう。ここに孔子が音楽を推進する理由を知ることになろう。


話はそれたが、易経が宗教の経典として現在でも健在であるのは、そこには絶対的な正しさがあるからとなる。ここに触れる事はもちろんの如く、死ぬほどの痛みを感じながらの事となる。人間は面白いもので、正しい事こそ辛く感じる。その苦しみから逃れたいからこそ、中国ではここから離れる人が続出したのであろう。ところが内向的な日本人は別であり、逆に食らいつくのである。そして徹底的に苦しみながら、新しい学説を生み続けるのである。


ところが、儒教を本当に活用させるためには音楽が必要となることは上述の如くである。つまり、易経というバーコードを音叉音へ変換し、その絶対的な正しさを「音楽」として民衆へ伝えて初めて宗教としての意味が出てくる。これは飛鳥時代から平安時代における神社や寺院でのライブの開催と同じ意味である。よって、宗教と音楽とが分断されている現代、これを接続される役割としての宗教、そして箱としての神社と寺院の存在こそ、宗教の復活への鍵となる。


ライブハウスとしての機能が損なわれた現代の神社や寺院において、本当の宗教を伝えることはできないであろう。ところが、現代の宗教は既に形骸化しているため、そもそもライブハウスとして機能させることが不可能であるとの、箱側からの主張もあろう。よって、私がたたき台的に議論を出しているのである。


ここまで述べたところで、次稿からは本格的に易経を吟味していく。期待されたい。