宗教といえども様々である。例えば、イスラム教においてはコーランが経典であり、同時に法律の役目を果たしている。よって、コーランを祈ることは法律を知ることになる。


古代の中国では法律はなく、道徳で乗り切ろうとしていた。それが儒教の経典であり、法治国家であった時期もあったが、秦代まで基本的に法律はなかった。六経こそが民の心得であり、これこそが社会の規範となっていた。このような形態の宗教も存在する。ここでも経典に祈りを捧げることにより、中国人としての知識と教養を兼ね備える事ができた。


神道ではどうであるかといえば、神道はやはり日本神話であろう。よって、日本神話を知ることにより生きる道を知るのである。ただし、日本神話では道徳や法律にかんすることはないとはいわないが、無いに等しい。例えば、スサノヲが老人の娘を助けるためにヤマタノオロチを退治するのは道徳にかんする事項とも読めるが、抽象的ゆえに特定することが困難である。換言すると、様々な解釈が可能となる。


これが日本神道であり、抽象的であることが特徴である。そこから何を学び取るかは個人的な自由となる。私はここが最も日本神話の良き点だと思っている。例えば、穀類起源神話にしても、ウケモチの遺体から穀物が育っている理由を探るだけでも、文系の私からすると相当な知識を吸収することが可能となる。理系でバイオテクノロジーを専攻する人なら、文系の人間では到底出せない答えを出してくるだろう。なぜこれが中学生や高校生の教材として扱われないのか不思議である。遺体と穀物をつなぐ何かを見つけ出させることを夏休みの宿題とすれば、とても有意義な夏休みとなるかと思う。


仏教にしても神道とよく似ており、道徳をうるさく言うことはない。どちらかといえば、「嫌ならやめちまえ!」というのが大乗仏教の基本である。日本の仏教のほとんどは大乗仏教と真言密教とで構成されているゆえ、仏教から直接学ぶことできるのは、捨てるであるとか、諦めの正当性ということになる。さて、儒教のように道徳を徹底的に叩き込む宗教、道徳よりも薬を作る方法や農業の基礎基本をダイレクトに伝える宗教が日本ではミックスされており、カオスの様相であるのも事実である。よって、宗教とは何かを明確に答えることができないのも当然であろう。


ところが面白いことに、宗教と箱が分離されているように、日本の宗教から法律も分離されている。西洋では聖書が法律の基礎となっているが、日本はそうではない。ここもまた日本独自となっている。


日本の法律の歴史を振り返ってみると、最初はやはり聖徳太子の十七条憲法であろう。飛鳥時代に聖徳太子は斑鳩から飛鳥まで高速道路を作り、通勤していたとされているが、その道中でこの憲法の思想が温められていたのであろうか。遣隋使は十七条憲法が作られた直後に派遣されており、宗教からある一つの体系が出来上がると、直ちに宗教から切り離すという日本人的な方法論を知ることができる。


総合していくと、日本における宗教とは換言すると、「未知の世界への接近」となる。これが覗きの精神と結びつくことにより、謎を解き明かしていこうする心の様が「宗教」となろう。わからないから祈るのである。祈って理解しようとするのである。


これが本来の日本の宗教の姿であるが、現在では全てが搾り取られた状態となっているため、そこに信仰のみが残っている状態となっている。形骸化した宗教を無理やり残していると、より一層の形骸化が進む。では、どうすれば日本の宗教が本来の意味での宗教へと復活するかといえば、それは儒教の経典における易経にそのヒントがある。つまり、占いという神秘である。


当たるも八卦、ハズレも八卦。日本人的には当てたいんじゃ!という思いが強すぎ、いつの間にか世界で最も優れた易経の占断をする国へと発展を遂げている。本場の中国人が日本の文献を頼りにする始末である。とはいえ、まだ謎が多く、それ故に日本人の多くの研究者を魅了し続けている。こちらは逆に宗教の枠を遥かに超え、学問との両立が確立している。


日本人が謎と対決する姿勢とビジネス展開を宗教的に吟味していくことを目標に書き続けていきたい。


次稿に期待されたい。