前稿では個性化への近道を論じた。あとは実行あるのみとなる。ここでこの連載を終えてもいいが、一応、宗教との関連を吟味してみる。


日本においては宗教と音楽とは完全に分離された状態である。神道においてもそれなりの準備を行わない限り、雅楽は演奏されない。ヨーロッパの教会のように、いつでもパイプオルガンが演奏される訳では無い。いつでもというのがポイントであるが、私がドイツの教会に入った時、パイプオルガンを見つめていた。大変失礼であったが、キリスト像には目を向けず、パイプオルガンに目を向けていた時に神父に声をかけられた。


パイプオルガンの奏者であるかを尋ねられたが、プロギタリストなのでパイプオルガンを演奏することはできないが、聞くことは好きである事を告げた。そうすると、その教会にはパイプオルガンを演奏することができる別の神父がおり、しかも近所に住んでいるから呼んでくれるとの事であった。


しばらくすると奏者が現れたので、バッハの小フーガト短調をリクエストしたところ、これが圧巻の演奏であった。


場所は移りアメリカの話をやってみる。


アメリカでの教会音楽といえばゴスペルとのイメージが強いであろう。『天使にラブ・ソングを』のイメージが強かろうが、場所によってはあれを遥かに超える。


私が行った教会はサンフランシスコのダウンタウン横の住宅街にある。楽器屋でギターを購入して意気揚々と歩いていた時、黒人に拉致されるように教会に連れて行かれた。


私としては死を覚悟したが、実際には私の演奏を聞きたかっただけのようで、ギャラを支払う余裕がなかった彼らは、私を拉致することで目的を達成しようとしていた。その場所がそもそも教会である。


しかし、オーディエンスは興味津々であった。私が暗い気持ちであっては事態を変えることはできないので、真新しいギターをアンプにぶち込みフルテンにし、バックバンドにジミヘンのパープル・ヘイズをリクエストした。そして、演壇を前にジミヘンのごとく大暴れした結果、神父がスタンディング・オベーションという異様な状況となった。その後、神父も加わり、演奏を楽しんだ事があった。


このように、欧米地域では宗教と音楽は密接であるが、日本はこれが完全に分離している事が特徴である。とはいえ、神道も仏教も、それぞれの「箱(神社や寺院)」では音楽を行う。要は、宗教の実践者と箱とは分離しており、現在の商法上での法人とよく似た運営がなされていた。


例えば、神道では各神社で雅楽が演奏されることはあるが、宮内庁に楽部があり、そこで楽師を育成している。つまり、伝統的な雅楽は高度に専門化されており、そう簡単に扱える音楽ではないことを意味する。このようにして高度に専門化させることにより、集中的多角化を実現させている。この楽部に所属する楽師は洋楽も演奏でき、空海による集中的多角をイメージさせる戦略である事を知ることができる。


仏教もそうであるが、日本人、とりわけ、内向的な人が個性化する時に専門化が進むのであろう。そして個々の専門の中で専門的な細分化、つまり、集中的多角化が進むものと思われる。よって、宗教家と箱とは分離され、箱の運営者は箱の運営のみに関わることになっていく。奈良時代、平安時代における箱の運営は国営となっていたので、各宗教の宗教家と箱は別物であったことはこれで証明される。


内向的な人は外に自分を布置していくのではなく、既に出来上がっている場所に布置していく方法となる。よって、空海は仏教が専門であったので、その専門領域に布置していく時、1,464体の仏像と共に仏教界へ布置し、個性化を果たしとなろう。


このようにして演奏の専門家も個性化し、箱の運営者も個性化していくことになる。但し、箱の運営者は音楽を企画するかと思えば墨の量産も行う。場所が変われば薬の製造販売も行っており、カネの匂いが強いのが特徴である。しかしここが面白く、箱の運営には今も昔もカネがかかる事を知ることができる。


つまり、箱の運営者は「カネ」に集中している事に注目せねばならない。よって、現代の経営者よりも思想面は進んでいるかと思われる。この割り切り感は現代の経営者では出せていない。金儲けに徹しない事が良き経営者とされるが、昔の神道と仏教における箱の運営者に至っては、非常に優れた金銭感覚を持っていたと考えられる。これも宗教からの成果ではなかろうかと思われる。


今回はここで筆を置く。


次稿に期待されたい。