宗教と音楽の関係であるが、前稿では認識論からのアプローチで論じた。しかしながら、音楽が和をもたらす形而上の原理についてはいまいち不明瞭である事は否めない。よって、今回は心理学的に吟味してみる。


音は周知の通り、無意識である。音は振動であるという見解もあるが、それは音の一面しか捉えていない。つまり、無音の状態では音でうるさくなる現象が起きる。よって、無意識と判定できる。


ここから理解できることは、音は振動からくるものと心の中から湧き出てくるものがあり、これらを統合することにより「音楽」となる。


とにかく、心の中からの音は地獄のようなものである。低気圧で鼓膜がおかしくなっている状態で強度の耳鳴りがする状況とほぼ同じである。しかも音階がない。よって、不快そのものとなる。


外向的な性格の人は意識が薄れてきた時、例えば、眠くなったときや酒を飲んだときはこの不快な音を聞くことになる。これを幻聴という。外向的な性格の人は心の内が外に向かうゆえ、意識が遠のくと簡単にこれと触れる事になる。


欧米人の多くは外向的であるが、彼らと接してまず驚くことは、何と言ってもこの幻聴である。彼らは疲れたり、眠気があったり、酒をのみ意識が遠のいてくると幻聴を聞く事が多い。しかもかなりの頻度でそれが現れるため、日本人的には驚きの連続となる。無意識の音と老賢者元型が重なると、老賢者の声を聞くことになる。このような現象が睡眠中に起こると夢となる。とにかく、それが非常にはっきりと現れるのが特徴である。


ちなみに、音が元型に重ならない場合は像として現れる。


中国人の多くは外向的な性格とされている。音を聞いて和を感じ、その必要性を強調するのであれば、孔子は外向的な性格の人物であったと思われる。よって、音楽は儒教の経典において重要な位置づけであり、それを政治の世界において援用させたのであろう。それがあまりにも効果的であったので、楽の経典は秦火の後に亡びたものと思われる。


では内向的な性格の人が多い日本における音楽の意味は何かと考えてみる。つまり、西洋や中国と比較した場合における日本の音楽である。


まず、内向的な人は仏像を心の中ですり合わせた飛鳥時代から平安時代までの人々と同じく、音も同じように処理する事になる。これは現在でも同じである。洋楽をヒントに楽曲作成に着手するのが日本のスタイルである。いわんや、ギターやピアノはそもそも西洋のものである。


このように、元々あるものを心の内に入れ、すり合わせていくのが日本のスタイルである。よって、元ネタがないと日本人の心は爆発しない事になる。


この爆発が内向的な性格には必要となる。なぜなら、内に入れたものを外へ吐き出す作業が必用だからである。内にいれるばかりであれば人間として生きている価値はない。外向的であれ内向的であれ、最終的に向かう方向は同じで、最後は温めた心を「表出化」させる必要がある。この表出化の方法に外向的と内向的とで差があるという話である。


外向的な性格であれば、意識が遠のいていれば簡単に表出化する。よって、そこに秩序を付けてあげれば事足りる。具体的には、音階のない不快な音が幻聴として聞こえてきた場合、そこに正しい音階を付けてやる。それが彼らにとっての「精神統一」となる。よって、音楽で遊んでいるように見えるが、あれは日本における「禅」と同じ作用となっている。実は私はこのタイプである。


内向的な性格の場合、この逆となる。ネタを心というタンクに詰め込んでいく。しかし、そのタンクの量は膨大な容量である。音楽では、好きな楽曲を100曲入れたくらいで心は破裂しない。むしろ心はもっと欲しがるであろう。


そうして聞き続けていく内に心は満たされてくる。しかしながら、それは満たされているのでまだ心の内で歩留まりしている。表に出すにはもっと入れる必要がある。満腹のところに更に入れるには苦痛を伴う。これが日本の芸術家における「苦」である。芸術家だけの話ではない。日本のあらゆるものは「苦」から生まれるしかない。一本道となる。まるで我々の新武士道と同じ状況である。


その苦から逃れるにはどうすればいいかであるが、内に入れることの一本道なので、もっと入れなければならない。それは空海が高野山で最期を迎えたのと同じ状況である。苦しくても入れ続けるしかない。


ところがある時に限界が来る。当たり前の事であるが、人間には感情がある限り、無限に入れ続けることはできない。これが臨界点に達し時、その心は爆発する。爆発した時に出てきたのが1,464体の仏像となる。金剛界曼荼羅とは金剛薩埵が成仏する様子となるので、仏界の完成形となる。それが弾けて出てきたとき、一気に1,464体の仏像として現れたことになる。これが内向的な性格の特徴である。そして、金剛界曼荼羅はその心の様をそのまま表現していると思われる。


ちなみに、空海は世直しのための方法論を追求していたので、心の向かう先は老賢者元型となる。その老賢者元型を追い求め、様々な経典を心に溜め込み、臨界点に達した結果としての1,464体の仏像となったことからすると、老賢者元型の一つのスタイルとして仏像というものがあると定義できよう。


元型とは何かとは永遠テーマであるようで、曼荼羅を見ると存外、答えは近いかもしれない。というのも、とりわけ金剛界曼荼羅は金太郎飴が分散して1,464個に散りばめられたようにしか見えない。つまり、元型とは最初はカオスな状態かと思われるが、最終的に金太郎飴のように組み立てられるのではなかろうかと思われる。それが臨界点に達した時、細かく分散するのはいいが、同じものが一気に、しかも大量に出来上がることで成仏、つまり、個性化、更には差別化が発生するものと思われる。


よって、本当の意味での日本オリジナルとは何かといえば、爆発による集中的多角化、それに伴う量産化となる。空海の場合はそれが老賢者元型に向い、結果として仏像の金太郎飴化からの集中的多角化となったのであろう。副産物として量産なるものが発生し、経済に貢献したというのが仏教から見た当時の社会ではなかろうか。


また爆発とはいえ、作品は最初からまとまっている。つまり、和の状態であることも特筆すべき点であろう。


これが現代であれば、例えば、ある男性が岩下志麻さんを信奉したとすると、1,464パターンのアニマとしての岩下志麻像が出来上がることになる。その作家は独自の布置を構成するようになり、そこから個性化をしていくことであろう。そして客体はそこから何かをつかみ取り、実体経済が活性化されるのであろうと予想できる。


武士道に音楽を追加させることにより、何がいえるかとなれば、元々ある無意識の音を外部の音とすり合わせる事による「和」を作ることがその意味となろう。この点に新渡戸稲造博士は目をつけていたと思われる。この見えない音に気づいていた事が大きいのであるが、なぜか武士道には組み込まれていなかったことに謎が残る。代わりに陽明学をもって和としているところにさらなる謎を呼ぶ。


外向的な性格の人は一曲づつ楽曲を作るのに対し、日本人は大量の時間を要しながらも一気に1,464曲作るというプロセスの違いがあろう。両性格共に元型を併用しての事となるので、1,464で成仏することから逆算すると、空海ほどの修行をしたとしても、一人の人間で新曲を作る事ができるのは両性格共に約1,464曲が限界ではなかろうか。


ここで筆を置く。次稿に期待されたい。