新武士道の連載は前回をもって終了した。ところが、まだ続きを読みたいとの声が多いと聞く。ニーズに答えるべきか否か、そこは合理的意思決定では決めることができない難しさがある。


新武士道において私がやっていることは、既存の宗教を創造的破壊というシュンペーターの概念を導入することにより、破壊しているに過ぎない。但し、破壊後に修復している。なぜなら、修復なしでは創造的破壊は実現できないからである。


創造的破壊とは何かといえば、「イノベーション」の事である。別の言い方では「新結合」となる。よって、修復後の各宗教は別のものへと変化しており、これは神や仏に対する冒涜となると私は感じている。


さて、こんな罪人を許していただけるのであろうか?歴史ある宗教を破壊し、別物に組み換え、さらにそれを内閣の名のもとで発表するような私をお許しいただけるのであろうか?


とはいえ、私の理論で元気になっている人もいるようなので、今回は号外的にやってみる。


新武士道は新渡戸稲造博士(以下、新渡戸と称す)の『武士道』が土台となっている。そこでは3つの思想が絡み合った思想が日本人に流れているとの結論に至っている。


これまでの連載ではそのうちの神道と仏教についてを各輪として取り扱った。儒教にかんしてはこの連載を始める前にかなりのボリュームで吟味していたのでそちらを参照されたいとの旨を示すことにより省略した。その意思に変わりはない。しかしながら、新渡戸は札幌農学校の教員時代、孔子の論語を引用しながら音楽教育に力を入れていた。これは北海道大学の資料館にいけば、その頃の新渡戸の教育方法を直に見ることができる。


新渡戸はキリスト教徒でありながら、結局は儒教の影響を大きく受けており、その意味において音楽教育に力を入れていた。


ところで、儒教と音楽との関係であるが、儒教の始祖である孔子は音楽が好きであることは有名な話である。なぜ好きなのかについは文字として見ることはないが、形式的には「和」を知るには音楽しかないという。和とは何かとの議論は現代でも行われ続けており、中国思想や哲学の学会でもとりとめのない話となっている。とはいえ、和といえばやはり日本であろうと思う。よって、日本と音楽は非常に密接なる関係があると思い、この点も調査を続けている。


中国と日本とは「和」でつながっていることがあり、ここからすると、日本人は音楽が大好きであるとの仮説を私は持っている。


ところで、これと神道、仏教とがどのような接点を持つかであるが、ここがまた歴史のロマンであろう。


例えば、アマテラスがスサノヲの悪戯を理由に岩戸に隠れ、地上は暗黒の世界となった。その時にアメノウズメという女性がほぼ全裸で踊ったことによりアマテラスを外に出すことに成功した。その時、アメノウズメが音楽無しで踊ったとは考えにくい。状況的にはほぼ全裸なので、何か音楽が奏でられていたはずである。その時にサンバが流れていたならば、それこそファンタジーの世界である。


仏教と音楽との関連は楽器の作成の技術に関わっているかと思われる。仏像を作る際の技術は仏閣を作ったり、楽器を作る技術に反映されたはずである。


仏教といえば集中的多角化戦略であるが、飛鳥時代に仏教や儒教が日本に入ってきているとなれば、音楽の幅も相当広かったと思われる。例えば、イザナミが死の世界で食べ物を食べた結果、地上に戻れなくなった話は、ギリシャ神話における豊穣神デーメーテールの娘であるペルセポネーの話とほぼ同じである。この事からすると、飛鳥時代には洋楽が既に入っていると予想できる。


何が言いたいかといえば、日本には日本の音楽、邦楽が存在することの不思議である。これほどまで地球上には様々な音楽があるにもかかわらず、日本ではやはり邦楽なのである。ここに「集中」するのである。この集中の精神が仏教に反映され、それを更に投影することにより世界の音楽は日本において邦楽へと姿を変え、無数の邦楽を世に放つようになったとすると、日本の音楽における仏教の影響は多大であるといえよう。


例えば、アメノウズメはほぼ全裸でマツケンサンバのような楽曲と共に踊り、アマテラスを引っ張り出したと想定すると、日本の起源についてのロマンは広がるばかりである。


そこまで話を拡大できるかは未知であるが、私による神や仏への冒涜が許されるのであれば、新渡戸における儒教教育と音楽を吟味した後、神道と仏教が日本の音楽にどのように影響したのかについてを吟味検討しようと思う。


その結果を受け、現代における音楽のあり方を将来展望として述べていくことにする。


読者諸彦からの意見に期待したい。