最近はある人が頻繁に魔女狩りという言葉を使い、日本人でも魔女について意識する人が多くなってきたのではなかろうか。


CMでも魔女が箒に乗って登場し、人助けをしている。


かつて『奥様は魔女』という、アメリカのテレビドラマがあったが、美しい魔女は普通の奥さんだったという話である。


さて、ここで共通するのは、魔女とは基本的に「いい人」を表現している。


冤罪を表現するために魔女狩りを使う人、他者に知恵を授ける人、旦那が快適に生活できるように魔法を使う人、人それぞれであるが、いずれにせよ、ユング派心理学的には老賢者元型をイメージさせるのが魔女である。


魔女とは何をかを定義することは困難である。この分野で基礎を作ったアラン・マクファーレンは、明確な定義ができないことを証明した。この逆張りの研究が面白く、若い頃は本に穴が空くほど繰り返し読んだ事を思い出す。


その昔、京都学園大学(現、京都先端科学大学)に乳原孝先生、日本では名のしれた魔女裁判や動物裁判、異端審問が専門の教授がいらっしゃいました。どうしてこのような事が起こったのかを質問したところ、「当時は暇だったから」との衝撃的な回答を受け、将来は乳原先生のようになりたい!と、非常に啓発させられたが、これも主要な要因の一つであろうと思われる。確かに、暇でなければ箒で空を飛ぶ事は考えられないであろう。そして何より、実際に裁判が行われているわけで、そこに時間をかけるだけの余裕があったことを知ることができる。


先進諸国の現代社会では、さすがに魔女ために裁判を行うだけの時間はない。


孫悟空は筋斗雲、つまり、雲を使って空を飛ぶ訳であり、魔女の箒といえ、当時の人々の願望が神話化される一方で、実在する人物を同一視することにより犯罪がでっち上げられる時代が実際にあった。


これが産業革命前夜で収束した事に私は注目している。つまり、産業革命が発生する直前に人々は魔女狩りを行っていた事になる。


これらのことに着眼し、短い連載を行ってみる。


次稿に期待されたい。