日本に仏教が伝来したことにより、宗教に大きな変化が起こった。それは何かといえば、経典に出てくる登場人物は像に過ぎなくなった事である。つまり、アマテラスや孔子のように主人公が直接信仰の対象となる事はなく、仏像を動かす人物が別に登場することになる。ここに信仰の対象の二分が発生することになる。勿論、小乗においてはこの限りではない。よって、大乗と密教においてこの現象が発生することになった。


なぜこうなったかについての原理は簡単で、小乗が発生した後に、ゴータマ・ブッダに異論を唱える人が現れ、後発の仏教が出現したからである。


儒教であるならば、儒家に対する反論は墨家が現れた後に道家が現れることにより完成する。こうして孔子と老子を統合することにより中国思想の土台が完成することになる。


神道は一つの物語の中でこれが完結する。つまり、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの兄妹三人が、太陽、月、地上という3次元で活躍することにより、陰と陽のコントラストを実現させた。


ところが仏教にかんしては第三極的な動きを見せる。どちらかといえば儒家と道家のあり方と近いが、それらが統合するされることはなく、小乗と大乗とで絶対的な対立を生んだまま進むことになる。よって、それを移入する日本としては仏教は未完成である事を危惧する。


例えば、自動車の安全性が担保されていない状態で自動車を買ってくださいといわれたところで、「甘えるな!」となるのは当然のことである。よって、朝廷からの指示として、日本のものとして完成させることができれば、仏教を入れることを許可しようとなった。これは当然の事であろう。


ここで経典の訳出者は悩む事になる。中国思想は訳出するだけで事足りる。よって、訳出者は訳出するだけでいいが、仏教は中国語の経典を訳出しながら日本用に書き加えなければならない。そうすると、訳者を超えて脚本家の道へ進まなければならなくなる。こうして仏教典から訳者が切り離され、訳者は同時に哲学者へと導かれるようになる。こうして仏教からはたくさんのものが切り離され、多くの産業を生み出すことになる。これが実に素晴らしいと思っている。


考えてみれば仏像一つから学者が生まれ、それが科学となり化学が生まれる。それらを起源としながら金属や墨などの加工品、酪農も始まる。経典を訳出しただけで終わらず、日本のものにしてしまうというアイディアこそが仏教が広まった主たる要因であろう。


このようにして、日本の仏教は仏教を操る人が出現したことにより、本来であれば各派の始祖となる人は僧侶という思想家としてどまることになるが、開始した人はさすがに信仰の対象にもなった。これは松下幸之助が松下電器とは切り離されながら経営学の研究対象となり続けたのと同じことである。これも自然の流れである。


いよいよ空海が世の中で活動しようとする時、彼は当然のごとく儒教、道教、仏教の3つを学んだうえで、それでも満ち足りない事に気づいた。それは何かといえば、全てが統合されていない事への不満であった。大日経を読んだ彼は、仏は心の中にいることに気づいた。つまり、外の世界に仏がいるのではなく、内に統合されるべきであることに気づいたのである。よって、全てを統合するにはどうすればいいのかについてを研究するようになる。


ちなみに、密教典ではどのようなことが中心として書かれているかといえば、「真言と陀羅尼、印契、曼荼羅」の3つである。真言と陀羅尼は既に述べているが、真言陀羅尼宗の事である。印契は仏像との契約の事である。しかし、相手は仏像ゆえ、ここで三密という祈りの方法で心の次元で契約するのである。曼荼羅は組織図の事である。見方を変えれば化学記号の配列ともいえよう。曼荼羅によりバラバラのものを体系化する事を目指す。この理路整然としたものを見ることにより、空海は世界を結ぶことの大切さを見出すようになった。


この時代、世の中は確実に進みながらも、荒れた世の中となっていた。その荒れ具合は奈良時代から続くものであったが、平安時代において定着する様になる。よって、平安時代では世直しが全面的に行われる事になるが、そこで空海の登場となる。仏教の世の中に入ってからというもの、近代化が進んだ。そうすると何が不足するかといえば、時間である。今の日本と同じである。とにかく時間がないので、修行を行っている時間はない。よって、仏像と心を通わせることにより、即身成仏する事を提唱し、平安の世直しが始まろうとする。


とはいえ、空海は出家し、一時期は日本を捨てる。これも難しく、実際に日本を捨てたかといえばそうではなく、遣唐使として派遣されたので、微妙なバランス関係である。よって、奈良時代とは違い、仏教が目指す理念は明らかに異なっていた。平安時代では発明品にかんしては漸進的イノベーションが軸となり、これとは別に世直しがメインとなっていた。様々な文明的な発展とともに、これとは逆相関するかのごとく人々は分断された結果であった。そこで空海は統合に向け真言密教を考え出すことにより、統合化を図るようになる。実際に仏像を使い、空海は次のような思想を展開する。


*普門即一門:普門総徳として大日如来。この下に一門別徳として、諸仏、王明、菩薩、天を置いた。


すなわち、大日如来を本尊とし、神をも含め、総合宗教へと導くことで、分断された世の中を統合させようと尽力したのである。


ここでいう神とは一門別徳の天である。正確には天部といわれ、例えば、七福神の大黒さんをも含めての総合宗教である。こうなってくると捉えきれなくなるが、仏像が分断を生んだのであれば、統合することも可能であろうとの楽天的な発想である。奈良時代が分断の時代であれば、平安時代は統合の時代となる。


しかし、平安時代の末期には東大寺は焼かれ、鎌倉時代へ入っていく時には政治の分断が起き出す。仏教は豊かな日本を作り上げたが、その豊かさを武器に政治の分断を導くことになる。それ以降、江戸時代に入るまでの長期にわたり、混乱が続くことになる。要は、仏教の影響はそれほど大きかったのである。


但し、空海の世直しによって平安時代に生まれたものも多い。中国も隋か唐へ変わり、日本は日本としての個性を発揮する時が来ていた。


借景とはよくいったもので、京都の文化の一つである。自然の背景をも含め、日本庭園とするこの手法は、この時期の仏教思想と見事に一致する。こうして空海による仏教は日本文化の完成に大きく寄与することになる。


今回はここまでとする。次回に期待されたい。