ここ最近は私の身の回りの人々が、実に興味深い変化を遂げてきていることを嬉しく思う。私は10代の頃から宗教の話を続けており、気がおかしい子供として扱われてきたが、今となっては私の話に耳を傾ける人が増えてきた。


最近の傾向として気になることは、時間と自分とを切り離し、「現地点とは何か?」と考え出す人もおり、その成長ぶり、すなわち、分化の深さに驚くばかりである。


時間と自分とを切り離し、現地点を表現した考え方に「無」というものがある。インドの思想であるが、無の境地とはどのようなものであろうかと考えるだけで、薬物に頼ることなくあの世の世界に行ける。その意味で、本格的に覚醒したい人は自分の中から太陽を省くだけで、ツクヨミの境地に入ることが可能となる。これぞ神秘の世界である。


ポンコツ学者の悪い癖で、あまりにも話がそれ過ぎた。ここで自我意識をしっかり持つことにする。


前回は仏教を類型化することにより、密教を理解することを目指した。とりわけ私達は真言密教をやっていくが、日本の仏教の中では新興勢力でありながら、最大規模の宗派へと成長を遂げた真言密教とはどのようなものかを吟味していることになる。


前回において、小乗から大乗への仏教における発展、そこから真言密教が小乗と大乗とは別にジャンルの一つに加わったことを述べた。


仏教が伝わった飛鳥時代において、当時の人々の意識は既に自然とは十分に分離を果たしており、よって、次のフェーズに移ろうとしていた。具体的にどのようなことかといえば、人が死ぬことや病気になること、自然災害には原因がある事に気づくことになる。つまり、因果関係の発見である。


因果関係の発見により、情報リテラシーが発展することになる。それまでは神道や儒教による哲学的な信仰のみであり、よって、記号論的な発想で全てを解決しようとしていた。例えば、田中誠一を記号化することにより圧縮する。そこから改めて田中誠一を復元することにより、田中誠一のコピーをたくさん作ることが可能となるという思想である。これが拡大すると、健康体の女性の土偶を作り、地面で割ると穀物が育つはずだ!という考えに至る。ところが、時間が経過すると共にそのような情報はガセネタである事に人々は気づきだす。これが日本では飛鳥時代となる。


飛鳥時代とは日本史の教科書ではそれほど重要な位置づけではないが、現代における細分化されたあらゆる学問分野において、非常に重要な時代区分である事を先に述べておく。


世界的にそのような時代背景であったわけで、その中で生まれた宗教である仏教は、結局のところ何かといえば、科学と化学の始まりといえよう。つまり、自然科学が仏教により伝えられた事になる。しかし、この頃はまだ自然と自然現象とは完全に切り離されているわけではなく、それは仏像と一体化した形でアジアを中心に広がりを見せたと理解すると、仏教への理解は深まるかと思われる。


これからはこの視座において仏教を吟味していく。


さて、様々な仏教が日本に入ってくる中で、小乗、大乗の区分において密教も入ってくる。いわば自然の流れである。これは日本における原始密教ともいえる状態である。様々な仏教がある中での密教であり、「ワシこそが密教じゃ!」という形で密教が日本に伝わったわけではない。初期は他の仏教よりも弱い立場で密教は伝わっており、最初は天台宗が密教の確立へ尽力していた。これが日本の密教の始まりである。


時代順に話を進めると、飛鳥時代には密教が入ってきており、次の奈良時代には「雑部密教」という、原始密教が伝わっていた。儒教の経典における古注と新注があるように、密教にもそれがあり、雑部密教に対し「純粋密教」なる経典があり、これにかんしては、まだ種火程度に入ってきているだけであった。


これが平安時代になると事態は一変する。何故なら、空海が誕生するからである。そして、空海の誕生と共に日本における密教は複雑化する。


現在の香川県で生まれた空海であるが、類稀な学問の才能を持ち合わせていたとされる。大学に進学するが大学のレベルの低さに落胆し、退学する。独学で学問を続け、最後は仏教にたどり着く。その過程において空海は儒教と道教を達成しており、最後の仏教に感銘を受け、この道に進んだとされる。いずれにせよ、中国思想にも大きく影響を受けており、仏教を志す旨を表明するために書いた『三教指帰』において、儒教、道教、仏教における比較研究を行うことにより、仏教の優位性を説くに至っている。


こうなってくると、真言宗においては大日如来を崇拝するのか、空海を崇拝するのかの混乱が生じてくる。ここがまた日本の仏教における複雑さとなる。小乗であれば信仰の対象は全てが一体となるので問題ないが、これが大乗となり真言密教へと仏教における多角化が進む中で、意思決定者と大日如来とが分離される事態を招くことになった。ここに信仰の対象における二元論が発生する。


さて、これが本当に二元論なのかについてはもっと後に吟味するとして、少なくとも、仏教における科学的管理法の出現により、様々なものが分離を加速させた事は事実である。それもこれも、仏様の力である。


心と体が分離し始めた平安時代。この時代に日本版の老賢者が活躍したことにより、朝廷は息を吹き返したと思われる。


この意味において、仏教は宗教を超えた存在であった事を現代の日本人は理解しなければならない。


次回に期待されたい。