前回は日本神話における中男(次男を意味しない)についての資料が見つからないとの結論に達し、その挙げ句、皇室に資料の協力を仰ぐという暴挙に出てしまった。さらに、日本のユング派心理学の権威である河合隼雄博士における中空構造論に対し、結果的に対立する仮説を出すに至り、ポンコツ学者の道を確実に歩む情けなさである。それこそ穴をほって隠れたいくらいである。


昨日はこの事もあり、一睡もできなかった。よって、徹夜で手持ちの資料を隅々まで目を通す事になった。その結果、やはり古事記や日本書紀における中男は活躍しないのではなく、活躍しすぎたから資料に掲載できなかった、ないし、資料がどこかで隠れたままであるのではなかろうかとの思いが更に強くなった。


さて、この私の心の問題をどのように解決していくかが大きなテーマとなってきた。


現在は穀類起源神話における神秘についての解読を行っている最中であるが、報告を怠ることによる大事故へつながる前に、今回の疑問について書き記しておく。


穀類起源神話については、後日、仕切り直して書くことにする。


桜が咲くこの季節、コノハナサクヤヒメの話題を振らないわけにはいかないであろう。古事記における日向神話として現在に伝わる神話である。すなわち、現在の宮崎県での出来事である。また、この神話は最終的に神武天皇の誕生へとつながり、更に浦島太郎伝説に通じていく長い話である。


コノハナサクヤヒメといえば、ニニギ命との結婚譚から話を始めた方がいいと思うので、概要をやってみる。


ニニギ命はコノハナサクヤヒメに一目惚れし、結婚を申込む。父親のオオヤマツミはこの結婚談に大喜びした。二人の結婚が永遠のものとなるよう、オオヤマツミはコノハナサクヤヒメだけではなく、姉のイワナガヒメも嫁に出した。


ところが、イワナガヒメの見た目は「岩」そのものであり、ルックスに問題があったが、逆に岩のように安定感ある性格が売りであった。


しかしニニギ命は、イワナガヒメをオオヤマツミの元に返し、コノハナサクヤヒメのみと結婚した。これを疑問視したオオヤマツミはニニギ命に:


「風が吹いても動くことのないイワナガヒメと華やかなコノハナサクヤヒメと同時に結婚することにより、幸せな結婚生活が末永く続くだろう。」と説いた。


一方、実家に帰されたイワナガヒメはこのように言った。


「私と結婚しなかったことで、生まれてくる子供は桜のように早く散り、長生きできないであろう。」


結果的にニニギ命はコノハナサクヤヒメだけと結婚し、子供が3人生まれた。その一人が山幸彦といい、神武天皇の祖父となる人物である。


イワナガヒメとは結婚しなかったことにより、3人の子供は神の寿命ではなく、人間の寿命で人生を歩むことになった。かくして、神であるはずの天皇が人間と同じ寿命で生きることになったという話である。


この神話もツッコミどころは満載である。よって、紙面を改め、徹底的に掘り起こす予定である。


これは余談となるが、この神話からすると、桜が早く散ることへの切なさは古代の日本から続くものである。しかしながら、それを美化していない。江戸時代では桜が早く散る現象を美化していた。それとは逆の思想である。むしろ、梅のようにしぶとく生き続けることを願う古代の思想に、新武士道を感じざるを得ない。


そして、古代の日本においては既に生と死の問題は明確に分離していることも理解できよう。神は不死身ではないことをイザナミという、日本初の死者において既に認識されていることも特筆するべきである。やはり、地球の寿命からすると人間の寿命はあまりにも短いことへの理解を、神との対比で理解しようとした古代人の知恵について、現代人だからこそ学ぶべきであろう。


今回の神秘はここまでとし、以下では付録的に私の問題意識を記す。


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コノハナサクヤヒメは結婚後直ぐに懐胎する。あまりにも早い出来事であったため、ニニギ命は他の男性との関係を疑った。しかし、火を放ち、燃え盛る産屋においてコノハナサクヤヒメは無事に子供を出産したことから、お互いの誤解は解け、夫婦の仲はもち直した。


ここからが問題となる。この時に生まれたのが長男としてホデリ(海幸彦)、次男としてホスセリノミコト(火須勢理命)、三男としてオホリ(山幸彦)である。


ホデリとオホリはその後、浦島太郎伝説に転化する神話に登場するが、古事記において、次男のホスセリノミコトはこの記述のみで終わる。ではなぜ子が3人必要?との神秘にはまる。これこそが神秘である。訳が分からない。これが穀類起源神話であれば、ツキヨミが該当する。つまるところ、神秘である限り、答えは必ずある。ところが、資料がこの世に出てこない限り立証することは不可能となる。よって、皇室の関係者の皆様方、ご協力していただけませんか?との願いです。


因みに、日本書紀において「ホノスセリノミコト(火闌降命)」が見える。しかし、なぜかホデリとして扱われている。ここからすると、やはり中男は活躍しているとの神秘だと、私は個人的に予想している。


ここまでを総合すると、ツキヨミとホスセリノミコトは活躍したとしても地味な役どころである。ツキヨミは男性でありながら月神、ホスセリノミコトはホデリであり、弟に支配されるようになる。


現代風に言い換えると、「裏方」に徹する事になる人物であろうが、中間管理職という意味では「中男」として型にはまっている。現代では『課長島耕作』なる人物が大活躍しており、物語という共通性から予想すると、ツキヨミとホスセリノミコトは島耕作的な役どころであったと予想している。


ところが、神話はやはり超人類的でなければならず、そこを守るために課長の話はどこかの時代で削除されたか、最初から別冊になっており、それが世に出てきていないかであるとの仮説である。


さて、この仮説が「中有構造論」となる日がくるのか?


新武士道の力で解き明かしたいものである。そして、次回に期待されたい。