新しい連載を始める。


ところで、表題をみて拍子抜けしている人がほとんどであろう。読者の多くは、例えば、「無意識の本質」であるとか、「神秘と無意識の関係」などの表題を期待していたと思われる。実際、昨日の午前中までは私もその考えであった。


ところが、新武士道における評価が高かったこともあり、次にどのような連載となるのかについての質問が関係者から相次ぎ、私としては困った事態となった。それは単純に、ネタバレしては面白みがなくなるからである。先が分かっておきながら読むことほど面白くないことはなかろう。


アダムとイブの神話からすると、禁断の果実を食べたが故に衣服の存在を知った彼等は、他の神様から叱られるのである。つまり、「知った」ことで「罪と罰」が与えられることになる。それでもいいのですか?という神秘性からの問である。


さて、それでも知りたいのが日本人である。これが西洋人であるならば、親しい間柄であればあるほど、未来の内容を聞くことはない。つまり、禁断の果実に触れることはないのである。


ところが日本人はこの逆である。イザナギはイザナミの遺体に会いにいく。鶴の恩返しであれば、見てはいけない鶴の姿を見てしまう。つまり、禁断の果実に触れていこうとするのが日本人である。よって、未来における私の連載の内容に触れたくて仕方がない。それを沈黙は金をいいことに、黙秘を続ける私にイライラは最高潮となり、それは転じて「黙秘コンプレックス」へと発展するのである。黙秘している犯人にイライラするでしょう?


今回からは無意識について吟味する予定であるが、無意識は転じて神秘となる。ユングは晩年の研究では宗教と無意識とを結びつけることにより神秘を解明しようとした。そうする過程で宗教についての新発見をするに至り、四位一体という概念も生み出した。これは西洋人的な発想からのものであり、主に万物における方法論を探る思想である。


日本はこの逆で、方法論は二の次、三の次。結果論を探る思想が基本中の基本となっている。よって、私の未来における論文の内容を先取りしようとするのである。


多くの日本人における、禁断の果実に平気な顔をして接近する、非常に楽天的な態度は何が由来かといえば、新武士道であろう。向かう先が禁止であろうが禁断であろうが、立入禁止であろうが、自分の命を捨てる事もいとわない態度でこちらに向かってくるのである。そしてその態度に気づかない日本人である。よって、新武士道は宗教であり、神秘であり、そして何より、無意識なのである。


前回の連載では宗教から無意識を排除することにより神秘性を殺していた。しかしながら、他の面において分化を進めた事で、中途半端に知識を深める事になった。よって、神秘性については痕跡すら無くなった事を反省する旨をしたためるに至ったのである。


新武士道という概念を導入することにより、無意識と神秘性を同一視することが可能となる。換言すると、それが許されるゆるい概念が新武士道である。ここから何を行っていくかであるが、それは、神秘性の類型化であろう。上述したように、西洋的な神秘性と日本的な神秘性は真逆であり、よって神秘性を二分する必要があるとの結論に至る。


現代の日本には西洋文化が大量に入ってきているので、表面的には未開の地のシャーマンのような存在に神秘を求めがちである。その意味で、私は関係者からはシャーマンと同一視されていたのではなかろうか。まあしかし、第三者が私をイメージする時、表面的にはシャーマンというのは面白いものである。そんなに原始的ですか?との疑問を問いかけたくなる。


ところが日本人の本質としての神秘は、上述の実例からも分かるように、非常に「科学的」であることが理解できる。よって、存外、西洋人の方がシャーマン的な神秘性に向かい、日本人は神秘性を科学に求めるという逆転現象があると思われる。


新武士道における原典は3つの宗教である。その内、儒教における経典の一つに易経がある。では、易経は神秘かといえば、神秘である。当たるも八卦、当たらぬも八卦、神のみぞ知るその未来・・・である。これが神秘でなければ、では、神はこれ以上に何を隠しているのか?との疑問に達する。


しかし、日本人はその神秘に何を求めているかといえば、「正答率の高さ」である。つまり、「当たる」事に神秘を求めていることになる。これこそが上述した「結果論」重視の思想である。正答率の高さに神秘性を求める日本人は、そのために命をも捨てる覚悟となる。つまり、自分自身が神になって活躍しようとする、超楽天主義であろうとの結論に至る。


実のところこれも皮肉なもので、易経の研究は本場の中国よりも日本の方が進んでいるのが実態である。易経における占筮の正答率の高さや解釈の正確性は、幕末の易学者である根本通明博士をピークに、世界最高峰を維持している。これを神秘と言わずして、日本における神秘を語ることは許されないであろう。


次回からは日本神話などを参考事例に、禁断の果実に触れていく。そして、罪と罰の痛みに耐えながら、死して知識を頭に叩き込んでいく予定である。


神秘の世界に期待されたい。