この連載は今回で終了とする。今回はまとめを行っていく。


思い起こせば、内閣官房の事務方から新渡戸稲造博士の『武士道』につて、自由に書いて欲しいとの依頼があったことが源流となる。私としてはまた古い議論を現代社会において掘り起こそうとする面倒な作業だと思っていたが、私の好きなように書くことが条件であったので、これを再編することにより新武士道へと進化させたことが、その経緯である。


これ以外に私は別の問題意識を持っていた。それは何かといえば、日本人の多くは無宗教の人が圧倒的多数という現実であるが、実のところその逆で、宗教心に満ちているのではなかろうかとの仮説である。


勿論、少数の学者であるが、神話などを根拠に日本人における宗教の存在を主張していることは存じている。それぞれに素晴らしい視座を持ち、日本人における宗教の存在を立証することに徹している姿に感服させられる。私にもそのくらいの粘りがあればポンコツ学者から脱却できるのであろうが、逆にそこまでの粘りがないのが私の特徴でもある。


私としては、日本人における宗教心の存在を立証していくよりも、新しく宗教を作って布教活動に勤しむ方が話が早いという発想の持ち主である。そこで、以前から新渡戸稲造博士における武士道にその根源を求めることは理解できていたが、今回の連載において実行に移した事は私にとって大きな出来事であった。


新渡戸稲造博士による『武士道』は称賛も多いが、同時に批判も多いことも重々にして理解している。そして私からの批判は今の連載前の連載にて論究した。その結果、武士道は思想ではなく「宗教ではなかろうか」との結論を下したことも私にとっては勇気がいることであったが、今となっては思い切って自分の理論を出し切ってよかったと思っている。


宗教をいくつかかけ合わせて出てくるのは当然の事ながら宗教となる。しかし、そこに出てくるのは新結合された宗教となり、換言すると、イノベーションされた宗教が日本人の心に深く根付いている事になる。少なくとも新渡戸稲造博士が武士道を執筆しようと考えついた時点で、3つの宗教を陽明学において新結合されていた状態となる。そこからすると、明確な時期は明らかとはならないものの、この新興宗教が日本人の心の拠り所になっていたことは間違いない。


その当時では神秘性が十分に発揮されたであろうが、時代が進むにつれ形骸化し、武士の切腹にばかり目が行くような状態の日本になってしまった。そこに新たな命を吹き込もうとしたのが今回の企画であった。これを私は「再編」と表現し、現代的意味を吟味するに至った。


総合して、新武士道では「生きるの一択」との命題を見出した。


ここで反省するべき点として、どうしても学者的なアプローチとなってしまうので、神秘性についてはゼロとなってしまったことであろう。元々ある宗教が新結合することにより新興宗教が出来上がり、それを更に新訳したことにより、あまりにも分化の程度を進行させてしまった。宗教性を全く感じない宗教となってしまったことについて、これについては真に反省しなければならないと思っている。


この反省を教訓とし、明日からの連載は神秘性についてをフィーチャーした連載を行っていく。前から予告している無意識についての連載となるが、無意識こそ神秘の世界である。その神秘性を新武士道へ統合させることにより、読者なりの新武士道を作り上げていってほしい。


この連載は今回で終わるが、次回からの連載に期待されたい。