新武士道の経典を作り上げるべく書き続けているが、これも困ったもので、私の研究者としての人生は東京大学の経済学部を卒業後、イギリスで学びながらアメリカのハーバード大学で経営学博士を取得し、経営学者としてスタートしたことが始まりである。しかし、今や宗教の分野に足を踏み入れている。


そして、新武士道の次のテーマは既に決まっており、無意識について書くように内閣(政府からの要請ではないことを明記しておく)から要請されている。これが何を意味するかといえば、いわゆる哲学に足を踏み入れることになり、カオスな状況となってきている。


本来、その資格を有しない者がそれを専門的に専門分野外の事を論じることは許されないが、それを許そうとする内閣と許さない学会との対立の間で、私は象徴となりながら苦しんでいる。


珍しく、内閣が新しい試みを行おうとしている事は特筆するべきであろう。


学者たるもの学会を優先すべきという意見がある一方、私の場合、身分の保証は内閣であるので、内閣からの意見を優先するべきであるとの意見もある。


私は学者であるので学会の主張はよく理解できる。やはり専門がある以上、専門外の事はあくまでも専門外となる。当たり前のことである。民間企業においては事業領域外のことに手を出すことになる。例えば、パナソニックが魚の養殖事業に進出するようなものである。


一方で新しく何かをやりたいとする内閣の意向もよく理解できる。心理学的には退行の最中なので、ここで前進させていくためにもブレークスルーが必要であるとの考え方である。


これら2つの意見があるとして、どちらが正解か?となると甲乙付けがたいわけである。私が学者の肩書にこだわり、在来型の学者としての態度を貫くと、学者としては優秀であるが、内閣に仕える人間としては疑問符が付く。これが内閣を軸とすると、その逆となる。


さて、天才のユングはこのような場合、どのような意思決定をしたかといえば、「どちらも正しい」とした。それはフロイトとアドラーの対立を考察した結果として下した結論であった。


では私はどのような結論を出すかといえば、「前進あるのみ」である。新武士道の開祖として解釈を下すと、内閣と学会の全てを含め、私として生きていくというものである。この場合、内閣と学会の「どちらも正しい」というユング的な意見ではなく、「この際、内閣と学会を新結合させ、新しい世界観を作る」という方法である。これが可能となるのは新武士道の成果である。


幸いにも内閣と各種学会は私の新武士道を認めた。よって、これを期に私は新武士道と共に歩んでいくのみである。


今回も前置きが長くなったが、上述の実例のように、現代社会では物事を達成する際、死ぬことはできない。よって、生きながらにして武士道を達成しなければならない。ここに新武士道の意味が出てくる。


武士は達成できない困難な状況となった時、男性は切腹をすることにより、困難な情況を達成した体とした。女性も同じく、家の状況が不利になろうとする時、主人の立場や家を守るという意味で井戸に身を投げたり、刃物で動脈を切ることにより、「生」を手に入れようとした。これにより丸く収まるのであれば、逆に楽なものであるとの事から、江戸時代にはエリート武士による自殺が増え、その対応に幕府は苦慮したと、新渡戸稲造博士の『武士道』には記述がある。


切腹もこのように形骸化してしまうと存在意義はなくなり、明治維新へとつながっていく。つまり、「切腹は意味不明」というように、西欧の考え方に目覚めた思想へ変化し、よって、「禁止するべき」というのが日本史の流れである。


しかしながら、切腹の本来の意味は「死して生きる」であり、どうにもならない状況になった時、その時は自分の命をかけて達成するという「信仰心」である。これが日本人の心から苦労して分離させた信仰心であるならば、後世の我々が粛々と引き継ぎ、そして実行せねばならないと私は思っている。


そのたたき台として、私は学会人として内閣からの対立する要望に新武士道の思想を援用し、突破させようとするものである。


とはいえ、まだしばらく新武士道の連載は続く。


次回に期待されたい。