前回において新渡戸稲造博士(以下、新渡戸と称す)における武士道についての吟味を終えた。ここからは私の意見を述べていく。


新渡戸による『武士道』における問題意識とは何かといえば、それは、「日本には道徳を知らせる宗教がない。しかしながら、それに変わる武士道がある」とのことから、武士道とは何かを英語で執筆し、世界に向けて発表したのである。


要は、新渡戸により日本には宗教がないことが発表された格好であるが、武士道を詳細に読めばそれは近視眼的発想であることに気づく。なぜなら、新渡戸は武士道なるものは3つの宗教が主要な構成要素となっており、それらを総合させる思想として陽明学を添加したと書いている。つまり、儒教、神道、仏教をグルタミン酸を使って合体させるために陽明学を使ったことになる。こうなると、これこそは経営学で意味するところのイノベーションとなっており、3つの宗教が新結合し、全く新しい宗教が生まれていることになる。この部分が私にとっての新発見となる。


この新宗教はどのようなものであったかを顧みると、しぶとく生きていくための方法論であった。その方法には2つあり、1つは現世を生きる方法である。もう1つは死ぬことによりあの世を生きる方法である。


総合すると、新しい宗教の教えにおいて、生には2つの方法があることが示された。1つの方法では現世を去る代わり、永遠の生を受けることになる。生きる方法には死をも包括することになり、それを選択するのは教養を兼ね備えた武士の個別の判断となる。現世に身を置こうがあの世に身を置こうが、どちらも正しい選択となる。ここから私はこの新宗教のことを「正武士道」と定義する。


正武士道とは「正しい武士道」という意味ではないことは明らかであろう。正しく、そして、しぶとく生きるための新宗教は武士道から発生したという意味で「正武士道」である。


この宗教の新しいところは、生きていくには物理的な死が含まれることである。つまり、生きるための方法が現代人と比較すると倍増していることになる。ここが新しいというか、斬新な点である。


現代人にとって生とは現世を生きる事のみに限定されている。その意味で、生にかんするフィールドは武士の時代と比較すると50%減となっている。豊かな時代となるに従い、平均寿命が伸びてきたのはいいが、生にかんするフィールドは逆相関しており、小さくなってきている。


ここに新渡戸における武士道の現代的意味を見出すことが可能となろう。


現代の政治家や官僚は、生きるためのフィールドを2分できているかという問題がある。政治家として生きていく、また官僚として生きていく場合において、フィールドは予め2つ用意されている事に気づかないまま人生を全うしている人物ばかりではなかろうか。


生きるか死ぬかという二者一択ではなく、生きる道しかないという考えに至らないのが私にとっては残念だと思える。デカルトの二元論の弱い部分はまさにここにある。それへの日本人的な反論こそ、一本道で人生を決める「正武士道」となる。日本の先輩達が作り上げたこの宗教は、デカルトの二元論を超越するものでありながら、気づかれることもなく軽視されている現状こそ、そもそも大問題であると主張しておく。


今回はここで筆を置く。ご高覧、ありがとうございました。