元型についての続きを論じていく。とはいえ、元型についてはこれまで散々論じてきた。よってこれまでとは異なる方法で行う。


専門用語が理解できない場合、河合隼雄博士の著作『ユング心理学入門』を参照していただきたい。


ユングによれば神話や夢の世界を吟味していくと、そこには全人類を共通したイメージが存在することを発見した。それを元型と定義した。元型とは無意識であるゆえ、正確には「元型イメージ」となる。つまり、仮説の域を出ない考え方である。


元型は全人類共通のイメージであるという仮説に彼の門人達も非常に悩まされたのであるが、要するに、ある特定の事項を極限にまで普遍化した考え方となる。


例えば、アニマとは男性の中に宿る女性像を意味するが、特定の女性を意味しないことに特徴がある。全人類の女性であることが前提となる。これほど普遍性をもたせると、さすがに「全人類が!」となるのは当然の帰結となる。


全人類に関係しながら、平素においてそれに縛られていることに気づかないものを元型と理解すると、時間も元型となる。よって、元型はユングが発見したもの以外にたくさんある。また、ある元型から枝分かれするものもあるだろう。例えば、ペルソナからスピンオフするものとして髪型というのはどうであろうか。


髪型を気にしない人間や民族はいない。否、未開の民族ほど髪型を気にするのではなかろうか。それはペルソナであると言ってしまえばそれまでとなるが、では、日本の僧侶はどうなるのか。丸坊主は髪型ではない。その意味で、毛髪におけるペルソナを捨てた存在となる。心の内から外へ向う唯一の元型とされるペルソナを否定するのが日本の僧侶における丸坊主である。よって、高次元の人間であると古来から認識されてきているのである。髪型としてのスキンヘッドとの違いはここにある。


このような立場では、ペルソナという考え方は無限の広がりを見せ、髪型をも含んでしまう。ところが、髪型も無限の宇宙であり、否、それどころかそれを否定することすらできてしまう自由度が存在する。日本においてはペルソナの否定が高次元の理由となる事実からすると、ペルソナへの普遍性はいとも簡単に否定されてしまう脆弱性を含むことになる。通常はペルソナに従うことにより高次元となりうるから、非常に矛盾する話となる。


ここに私はユングの分化と統合という手段を利用し、対立する考え方を分離し、元ある元型に組み直す作業を行うようにしている。この作業により、ユングにおける元型論にバランスを持たせている。その一例がペルソナと髪型である。


このように元型を捉えていくことにより、創造性が豊かになっていく。例えば、女性の僧侶を吟味してみると、毛髪を全て剃り落とした丸坊主の女性となる。さて、ここではペルソナとしての男性も女性も否定され、中間の人間となる。この世に男性の僧侶しか存在しないのであればペルソナの否定のみにとどまるが、この世には女性も存在する。僧侶の世界に女性が組み込まれることによりジェンダーレスが実現する。髪型とはそれほどの威力を発揮する。


このペルソナの否定は欧米諸国では学校の制服で解決しようとしたり、トイレを男女共用にすることで克服しようとする傾向が最近では顕著である。日本では髪型を否定することにより既に実現しているが、そこに気づいていない事を残念に思う。欧米諸国よりも遥か昔からジェンダー問題を克服しているわけで、もっと自信を持っていただきたいものである。


そして、切腹の時にも力説したが、大切なことは「分離」である。今回は毛髪を剃り落とす事による分離である。そしてその分離を男女が同時に行うことにより統合が達成される。これが元型と自我との作用における統合の作用であり、個性化となる。つまり、日本的なジェンダーレス社会から世界に向けての回答は、男女が同時に行動することである。どちらかに寄せていくことではない。


元型が世界共通の概念であるならば、元型論からひねり出した日本型ジェンダーレス論も世界共通となって然るべきである。この理論が世界に広がり、日本が世界をリードしていくことを願っている。