参考資料を差し込みましたのでこのシリーズは久々となりました。私としてもどのようなことをまとめようとしていたのかを読み返してみますと、元型の使い方における「福岡モデル」を作ろうとしておりましたので、この線に沿って話を進めてゆきます。
まず、私の問題意識として、なぜ福岡県(以下、福岡と記す)の人は物語の世界を生きることができるのか?というものでありました。福岡の人と話をしておりますと、業種を問わず非常に物語の世界を生きていることに気づきます。そしてその物語の主人公が話をしいる主体であり、それを実社会にて物語の主人公として歩んでいるのが福岡県人であります。もちろん、全員ではありませんが、福岡県の人のほとんどはこのような人生を歩んでおります。
このようなことですから、人と出会う度に元型と対面しなければならず、多くの人と出会えば出会うほど元型との出会いが増えるわけであります。食べ物はうまい、酒もうまい、生活もしやすい、福岡市に至っては公共交通機関もかなり発達している状況で、客観的に見てこれほど住みやすい地域は他にないはずなのですが、なぜか疲労感を感じていたのでありました。その理由を冷静に考えますと、福岡は芸能人だけではなく、芸術の分野について全般的に強い地域であるということは、それほど元型をうまく外へ出している人が多いという仮説に結びつき、それ以降は独特の疲労感はなくなっていったのですが、元型を含め、無意識なるものはそれほど強い影響を与えるものとなります。
このような素晴らしい才能をもった福岡の人が東京へ行き、最後のツヤだしを行うことによって洗練された芸能人(芸術家)へと成長してゆくのですが、こう考えてみると、東京にはやはり優れた才能をもつ芸術家が最終的に集積する地域であることは間違いなく、よって、強烈な元型の使い手が最終的に集積する地域が東京であるとすると、地方の優れた元型の使い手が東京の街を洗練させていると考えられ、それゆえに福岡市の町並みは昔から東京と似ており、これは東京からそのような思考が移入されたわけではなく、むしろ、福岡の人の思考が東京へ移入された結果として東京の街並みの一部が構成されているとも考えられ、このような立場に立つと、首都というのは面白く、一見するとカオスのようでありますが実はそうではなく、カオスのようになっていることに意味があることが理解でき、そこに人間の心の構造とを重ね合わせると、存外、きっちりとはまるものではなかろうかと思うのであります。
話はそれますが、私はかつての渋谷駅は好きだったのであります・・・
ここで話を戻しまして、さて、ここまでは日本の多くの人にはご理解いただけているかと思います。しかしながら、ごく一部の地域の方々にはまだ釈然としないかと思います。ここで登場するのが東京VS.大阪という構図であります。これについてはマスコミを通じていつの時代も笑い話のネタとしての代表格となっておりますが、なぜいつの時代もこれが笑いのネタにされるのかを考える時、ここに東京の一部を構成する福岡文化との関連も大きいのではなかろうかと思われます。
つまり、東京と福岡は人間の心の構造が似ているとなると、福岡と大阪も対立することになります。さらに、東京は全国から元型の使い手の名手が集積すると考えると、大阪以外の全ての地域と対立することになり、これはまさかの構造となってしまうのであります。日本は小さな島国でありますが、なぜ統一されず、それも一部の地域だけが異なりを見せるのかについては深い謎でありますが、しかしながら、易経に見る陰と陽との関係からすると大阪は我が国において、なくてはならない存在であり、むしろ、大阪があるから東京が成り立っているとの仮説は有効となり、これゆえに大阪の人には元型の話は理解しにくい可能性があるかもしれないと思い、この部分をフォローしながら話を進めてゆきたいと思うのであります。
また、東京には全国から元型の使い手の名手が集積するということは、当然のごとく大阪からも元型の使い手の名手として参戦する人もいます。そして、大阪に留まりながらも元型の使い手の名手として活躍している方もいらっしゃいます。この大阪における元型の使い手の名手にかんしては福岡モデルとの逆のプロセスを進むことになりますので、先ず、福岡モデルを作り、その後に大阪モデルへ進み、最後にこの二つを統合する作業を行う予定であります。
さて、話が長くなってきたところで、今回はここで筆多くことにします。かなり大きなテーマでありますので問題意識とそれについての史的展開の部分については多少長くなったとしても、しっかりと述べてゆこうと考えております。理論的展開については史的展開部分にて、それこそ部分的に組み込んでゆき、それらの理論を統合した結果を理論的展開とし、最後に結論、そして将来展望へと進みます。
次回をお楽しみに。ご高覧、ありがとうございました。