他者論を進めておりますが、ここで基本に立ち返りますと、ライブにてステージに立ち、演奏する演者の個性化についての重要性を指摘しつつ、そうであるならば見る側の態度もまた大切であるとの結論に達し、ここから他者論を展開するに至っております。

 

やはり、ライブでの演奏を見てもらおうとする主体に対し、それを見る側もそれなりの態度でなければライブの現場は成り立ちません。各アーティストは見てもらうために努力するわけですから、当然、観客の態度に合わせてゆくことになります。その時、観客の態度はライブを見る時の態度ではなく、宴会ムードであった時、アーティストの個性化は宴会ムードへと向かうようになります。さて、果たしてこれでよいのか?とも思えてきます。

 

ここで経営学的な他者論(ノエマ的他者論)により、自己から他者を眺めた場合、他者を類型化することになります。つまり、今日は宴会ムードの客だな、また、今日はライブをBGMとして活用してるだけだな、など、これこそ無意識に他者を類型化し、自己の個性化の素材としてゆくことになります。ここで大切なことは、自己は他者の心を既に読み取っていることになり、しかしながら、他者はそのことに気づかないというアンバランスさであります。多くの他者は何も語っていないので自己へ思いは伝わっていないと思っている場合がほとんどでありますが、実のところ、アーティストは場の雰囲気を読み取って瞬時に個性化しますから、他者の思いは丸見えなのであります。

 

場の雰囲気が良ければ、プラスのスパイラルが起きますが、逆の場合は負のスパイラルが発生し、ライブは失敗に終わります。このように考えると、やはり音楽業界を全体として盛り上げようとするとき、アーティストの努力も大切なのでありますが、見る側の態度も非常に大切であり、自己と他者が一緒になって盛り上げてゆかないと業界全体が沈んでゆくことは、簡単に想像できます。

 

ここでノエマ的他者論を経営学的な手法を交えて抽出される結論として、上述のように、「類型化」することではないかと思われます。これにより、ノエマ的他者論の理論的展開の方法として、「類型化」が大きなキーワードとなるものと思われます。距離的に近くない他者を類型化することにより、自己が他者へ接近する方法としてノエマ的他者論が活きてくるのではなかろうかと思われます。

 

このように、無意識の作用は非常に広範囲にわたり作用していることがわかります。学問的には意識的に行われる類型化でありますが、この類型化ですら、無意識で行われることもあり、類型化の作業は意識で行われることもあれば、無意識で行われることもあります。とりわけ、ライブ会場においては分析している時間などないので、無意識に頼るほかなく、この無意識が働くアーティストほどライブをうまく進めることができるのではないでしょうか。ここが無意識からの恩恵であるかと思われます。

 

またライブの観客は、その空間を本当に楽しもうとするとき、やはり、心の底からステージ上のアーティストを応援する気がなければ、ライブの空間としては失敗に終わってしまいます。大きな祭りでライブ用のステージが組まれていて、そこで地元のたくさんのアーティストがパフォーマンスを行う場合がありますが、いまいち盛り上がらないのが常ではないでしょうか。その理由はまさに自己と他者の問題であります。祭りそのものを楽しみたい祭りの客と、パフォーマンスを行いたいアーティストとの需給関係の不一致がそうさせるのであります。

 

しかしながら、このような空間は無意識で成り立っておりますので、ここを活用すると、アーティスト側が客を類型化し、祭りを盛り上げるためのパフォーマンスを行えばたくさんの人から見てもらえるようになります。ステージの前で大勢の人が酒を飲んで楽しんでいる場合、80年代のアイドルの曲などを披露するとその場は盛り上がるのではないでしょうか?なぜならな、ステージ前で堂々と宴会をする人々の年齢層は、50歳以上の場合が多いからです。

 

このように、自己も他者も結局のところ持ちつ持たれつの関係でありますので、お互いが気持ちよく音楽を共有するには、主体の技術力も大切でありながら、見る側の態度もまた大切であるとなります。

 

このバランス感覚が正常な値になってくれることを願いつつ、今回はここで筆をおきます。

 

ご高覧、ありがとうございました。