音楽を商業ベースで考える時、どこに焦点を合わせてゆくのか、また、自己(ここでの自己の意味は他者という表現への対比においてのことである)と他者との関係における商業ベースの音楽とはどのようなものかを考える時、商業ベースであるからこそ無意識の力を借り、芸術力を高めてゆくことが成功への道であるのではなかろうかと思われます。

 

ユング心理学の立場からすると、やはり、多くの人の心をつかんでゆくことが必要となってきます。それはいわゆる個性化の話へとつながるのですが、個性化の話はとりわけ、アーティストの話に限定されるものではなく、様々な人へ適応されるものであります。換言すると、アーティストに応用することは十分に可能であり、よって、商業的にも適応可能である、否、各アーティストを世に出そうとするとき、適応させてゆくべきであると私は考えております。

 

ここで前稿からの続きですが、人は十人十色といいますが、大きな会場でライブを行うとなると、当日に集まる観客の皆様方も様々となります。これは名前が違うとか、出身地が異なるというようなことではなく、心理状態が様々な状況であるという認識であります。ある人は気分が晴れている状態、ある人は普通の状態、またある人は内向きな状態など、様々な心理状態の観客の方々が集まる空間であります。このような状況にて、ステージにおいてパフォーマンスするアーティストはそれこそ自己と他者とを一体化させてゆき、宗教体験にまで持ち込んでいくわけですから、これこそユングのいう「自己」の像を見てゆくことになります。

 

前稿においては退行が進んでいる観客を例にしております。この観客からするとアーティストとの心理状態は180度異なります。それなのに宗教体験にまで達するのはなぜかを考えてみたと思います。

 

しかし、これは簡単なことでありまして、この観客は退行しておりますので、アーティストの自己の像(イメージ)を実際に目にすることにより、より心の深い層へ行こうとします。これが中途半端に自我の方へ意識が流れてゆくと話がおかしくなるのですが、通常、このような状況の時はより内向きにリビドーは働きます。しかしながら、実際には個性化された自己の像を目の当たりにしていますから、心の内側に入っていきながらも、投影することにて自我が保たれている状態へと導かれます。こうなるとアーティストの前進する心と観客の退行する心とが波に乗り、主体と客体との空間の共有が実現します。

 

もともと前進している観客とその中間に位置する観客も原理的には同じでありまして、ただし、すでに前進している人はライブ会場での空間の共有を最も楽しめる状態であるのは言うまでもありません。

 

これをステージ上のアーティストへ向けて論じてみますと、ステージの向こうには客体が存在するという事実をどのように対処すべきかという点であります。ステージ上で歌がうまく歌えたなどの技術的なことでは客体は納得しません。なぜなら、心理状態に違いがあるからです。例えば、ギターソロがうまく弾くことができたと該当するミュージシャンが思ったとしても、それはそのミュージシャンが勝手にそのように思っているだけであり、実際にはどのように観客へ伝わっているかなど調べようがありません。なぜなら、音は存在しなく、無意識であるからです。

 

ではどのようにすればよいのかですが、この無意識を無意識として活用し、観客の無意識とアーティストの無意識とを対決させればよいのです。音が無意識であるとわかっているのですから、来場している観客の皆様方は無意識の体験をしに来ていると考えることができます。そうであるならば、思う存分、アーティストとして無意識を観客へぶつけてゆくことが最も重要なことになります。、どのような音を出すか、間違わないように演奏する、さらには難しいテクニックでの演奏など、自我意識の高いライブの空間を作ってしまっては本末転倒となってしまいます。

 

しかし、これは決して「能ある鷹は爪を隠す」というようなことではなく、爪を出してゆかねばならないのですが、爪はメインではなく、メインはあくまでも無意識であることを自覚せねばなりません。ここが本当に難しいのであります。しかし、これができるようになれば本当のプロであるといえましょう。

 

この爪の出し方に、それこそ「個性」が発揮されるのであります。

 

今回はここまでとします。ご高覧、ありがとうございました。