これまで見てきたように、心が健康な状態の人においては絶えず無意識との対話が、ごく自然と行われている状況となります。これを意識できていないから無意識であります。無意識との対話となると非常に難しいことだと思われたり、また、そんなことは不可能だと思われることがほとんどでありましょうが、実はそうではなく、私達の日常生活のほとんどは無意識で成り立っており、換言すると、無意識であるからこそ生活が成り立っているともいえます。

 

但し、無意識は意識との対立によって成り立っておりますので、意識レベルが弱ってくると大変な状況となってくる場合もあります。例えば、個人的無意識の層においては、ここはユングによれば記憶の層であり、よって後天的な無意識の層でありますが、ここから過去の嫌なことが急に意識を攻撃しだすと、いわゆるフラッシュバックといわれる現象が起き、大変な事態に発展します。それがまた普遍的なことであれば理解もされるかもしれませんが、あくまでも個人的なことであるので、周囲からの理解を得ることができずにさらにおかしなことへと発展する可能性もあります。

 

これが普遍的無意識からの攻撃となると・・・と考えると、無意識から得ることは多いものの、逆襲が始まると大変な状況となることも忘れてはならないのであります。

 

このように考えると、濃縮ジュースをうまく還元して飲んでいくのが、意識と無意識との対立という考え方となります。こうなれば、やはり意識なしには無意識は成り立たず、無意識なくては意識の役割もありません。人間に意識しかないとすると、長生きすることはできないでしょうね。何もしなくても過労死に至るかもしれません。意識と無意識との対立は奥が深いのであります。

 

ではこれを音で考えてゆくとどのようなことになるかですが、心の奥底にある音の原典があったとしても、それはそれのみでは稼働することはないかと思われます。よって、意識的にそれを動かしてゆく作業が必要なのであります。ではどうすればよいのかというと、つまり、多くの音を聞くという作業です。音だけでありますと非常に多くの音を聞いてゆかねばならず、さらに途中で飽きてくる可能性もあります。そこで活用したいのは楽曲でありまして、楽曲であるならば一つの楽曲の中にたくさんの音が詰め込まれておりますので、音に対する投影を行いやすくなる可能性があります。

 

確かに、有名な音楽のアーティストの特徴として、彼らは常人ではとても信じられないほどの楽曲を聴いており、それらの中からの音の組み合わせに心の底にある音の原典がまじりあったとき、それは非常に良い作品に仕上がることは間違いないかと思われます。

 

このように、本当に音と向き合い、音を楽しんでゆこうとする場合、すでに仕上がっている楽曲を多く聞くという作業が必要となってきます。アニマ・アニムスの発展においても、これらを正常に機能させている方々はやはり日常的に人との接触が多いものと思われます。それは例えば、通勤時間にすれ違う全く知らない人から、近所の住民、オフィスでの同僚なども含め、それこそ無意識に大量の異性を目にしているからこそ育つものであると考えると、音への理解を無意識と共に深めてゆこうとするとき、やはり大量の楽曲を聞いてゆくことが非常に大切であるかと思われます。

 

こうすることにより音への自由度が増してゆき、新しい発見ができてくるように考えられます。例えばジミヘンコードなどはその例ではないでしょうか。コードといわれる和音の方法はもともとあります。そこに新しい発見が加わり、新しい和音が加わろうとするとき、無意識からの応答を感じるのであります。このあたりのことになると表現が非常に困難となるのですが、いろんな音を表現してゆくとき、既成の音では表現してゆくことができないことも多々ります。例えば、バスのエンジンにおいて、シフトップしたときに発生する高音域などをイメージすると、既成の音では無理であるので、何とかそこを克服してゆこうとするときの感覚について、その時の意識状態と無意識の状態がうまくマッチしたとき、ジミヘンコードのような新しい和音が出現するのだと思われます。

 

このようなものこそが無意識からの贈り物であるかと思われるのですが、それにしても壮絶なる対峙が必要となることもお分かりいただけたかと思います。これゆえに、好きでないと事は進まないのです。

 

本日はここまでです。ご高覧、ありがとうございました。