無意識とどのように向き合うのかについてを吟味しているのですが、これまで見てきたように、無意識は意識できていないからというより、自由すぎるので逆にどうすればよいのかわからないというのが本当のところであるような気がしてきました。これを例えば、易経の原典と伝との比較において解説したこともありますが、やはり、この自由にある程度の制限をかけることにより、よりスムースな行動が可能となるのではなかろうかということを音において吟味しております。

 

音は音としてこの世には存在しないことは科学的に証明されております。これゆえに音が聞こえている状態は無意識であるといえま。、音は波動として鼓膜に響き、これを音として認知してゆくのですが、要するに、この時の人間の波動の感じ方がどうなっているのかというのが問題でありまして、音が音として存在しない限り、人によって聞こえ方や感じ方に差が出てくるかと思われます。ここに音の不思議があるように思われます。

 

絶対音感の方々を考えると、やはりどこかに音の元型のようなものが存在しており、それがあるから波動を音として認識できるのではなかろうかと、前稿において至りました。ここから導き出される結論としては、まずをもって音を聞き、その音の音階を知ってゆくことにより、無意識に制限、ないし、無意識との対話を行ってゆくことではないでしょうか。このように書くと、そんなの当たり前のことじゃないか!!といわれるかもしれませんが、この原理を理解して音楽に取り組むのとそうでないのでは、音に対する楽しみ方はかなり違ってくるかと思われます。

 

もう少しいいますと、私が聞こえるドの音と、隣の人が聞くドの音には、大きな差はないにしても、聞こえ方は違っていると認識することにより、これも逆説的でありますが、自由度が増えるのではなかろうかと思います。つまり、他者に伝えようとする音と他者が受け取る音は実際には異なっていると考えると、やはり伝えようとする思いが非常に重要であるとなります。

 

もちろん、楽器を弾く技術であるとか、作曲をするなどの技術は別途必要となりますが、これを超えてアーティストとして活動してゆくとき、そもそも他者への音の伝わり方は十人十色であると考えていれば、創作活動に大きな幅が出てくるのではなかろうかと思われます。

 

これはアーティスト同士でよく議論になることでありますが、出てくる音をどのように感じるかについてで喧嘩になるようなことが多々あります。それはどういうことかというと、音を作ったその人は、その音に透明感がああり、非常に前面に出て万人受けするように思っていても、他のアーティストが聞くと、意外にも全く違った意見が出てきたリします。これなどは音に対する聞こえ方の最も端的な例でありまして、結局のところ、音は聞く人によって聞こえ方は本当にさまざまであることを思い知らされる事例であります。

 

ここまでわかってきたところで、では音の楽しみ方へと移ってみたいのですが、音自体はやはり基準がないとただの音となってしまいます。つまり、音符の知識がなければただの音となってしまい、つまり、ユング心理学での表現ですと元型そのものの状態となってしまいます。元型も加工しない限り元型として機能しません。これと同じで音もある基準を与えることにより、命が吹き込まれます。

 

例えば、ギターでは標準のチューニングにおいて6弦を開放で弾くとミの音が出ますが、これもその知識があるからミとなりますが、何の知識もなければただの音となってしまいます。面白いですね。音の世界は・・・

 

そして、このように音を一つ一つ確認してゆくと、音は7つに区分され、音楽となるとこの7つの音の組み合わせで成り立っているという制限が理解できてきます。このように書くと難しくなるのですが、つまり、音そのものは自由であるので、7つの音に制限するという考え方です。このようにして音の基準を作り出し、一つの作品へと仕上げてゆくというのが一連の流れであります。

 

このように、音に対して制限をかけ、心理学的には意識と無意識との相互作用を起こさせることにより、音も音として生きてくることになります。

 

次回はこの自由すぎる音に制限をかけてゆく、つまり、意識と無意識の相互作用のプロセスを見てゆこことにより、音との楽しいかかわり方を吟味してゆこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。