それにしても無意識というものは考え出すときりがなく、逆に意識的になると行動が止まってしまうこともあり、やはりこれらのバランスが重要であるとともに、どちらかというと無意識に任せておく方が行動としてはスムースなのではなかろうかと思われます。これは音も同じであろうかと思われ、全てのことを頭で意識的に、つまり、音にかんしての原理原則を頭に流しながら演奏していたのなら進むものも進まなく、その意味で、感情に従って演奏や作曲ができるアーティストというのは、音楽業界では力強く生きていくことができるのではないでしょうか。

 

前稿において、音にかんすることを音楽の話と共に少しだけ進めたのですが、音楽という方向へ話を進めると無音の音楽も存在するという事実もあり、その無音の間に聴衆は何を考え、どんな音が脳内に流れているのかを知りたいのですが、これは原理的に不可能であるところが、また無意識なのであります。

 

無音の音楽が存在するとなると、やはり音自体もかなり自由で、そこに基準をつけてゆくこと自体がどうなのか?ということになるのですが、これにもまた問題がありまして、私がイギリスに留学中、ケニアへ行ったことがありまして、そこで地元の人が歓迎の歌を歌ってくれました。それが大変、心に響く曲であったため、もう一度歌ってもらおうとしたのですが、「心の奥から勝手に出てきた歌だから二度と歌えない」といわれたのでありました。なるほど、これがいわゆる歌というものかと感心したのですが、ヨーロッパの人はこれを何度も繰り返し歌えるように音を視覚化し、その後、グーテンベルクの活版印刷技術により音楽は紙面の上で大衆化したという歴史があります。ここにビジネスチャンスがあったわけですが、こう考えると、世の中は何が正解なのかよくわからなくなりますね。

 

ただし、印刷技術が音楽産業を拡大したとなると、原作者による実際の演奏を聞いたこともないのに、音符だけを頼りに自分たちで演奏して音を楽しもうとしたわけですから、やはりカオスも大切である反面、基準となるものを作ってゆこうとする気持ちが当時は拡大していたと思われます。意識との相互作用は巨大ビジネスを作り上げたという事実からすると、自由という状態に少しの制限をかけるとそこに商機があるともいえるでしょう。もう少し芸術的な表現をすると、自由な部分に制限をかけてゆくことにより、より音としての表現が豊かになるということでしょう。

 

このように考えてゆくと、では人間には絶対音感を持つ人がおりまして、この絶対音感の人はある音を聞くとその音が何の音であるか分かってしまう人のことであります。例えば、ラの音を弾くと、その音がラであると即座にわかってしまうのであります。絶対音感という立場からすると、これまで私たちが考えてきたこととは逆のことが起こっております。これまで私たちは音は存在しないので、自由に音を作ってゆけばよいのである!と論じてきたのですが、絶対音感という概念を前にしてこの議論をこのまま進めてよいのか?ということにもなろうかと思われます。

 

絶対音感の人はある音を聞いて瞬時に何の音かを判別できてしまうので、その行動自体は無意識でありますが、体の中のどこかに音の基準が既にできており、音を即座に意識化することができる人のことであります。こうなると音にかんしてまた問題が出てくるのですが、音の名称は人間があとから定めたものなので、議論の対象外とするとして、音の基準となるものは漠然として、本来は人間の心の奥底にあるのではなかろうかという疑問があがってきます。つまり、音にかんする元型のようなものが存在し、そことの接触により意識として音を類型化している可能性があるのではなかろうかと考えております。

 

ちなみに、動物は基本的に絶対音感とされております。言葉がない故、絶対音感でなければ生きてゆくことができないからというのが理由であるそうです。

 

人間と動物との比較を行うと、必ずといっていいほど、該当する人は動物と同じレベルなのか?という批判を浴びることになるのですが、私が主張したいことはそうではなく、絶対音感が無意識であるのならば、その無意識にいとも簡単に到達することができる能力のある人が絶対音感の人であるという仮説であります。絶対音感の人は実際に、世の中の様々な音を面倒に感じる傾向にあり、それはなぜかというと、音が即座に意識化されるが故の現象であるかと思われるからです。

 

さて、ここまでくると音で遊んでみる準備がようやく整ったかと思われます。自由と制限による、結果としての自由空間をどのように考えてゆけばよいのかについてを考えてゆこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。