人間にはせっかく無意識があるわけですから、それをうまく意識化させることでこれまで以上に人生が豊かになるのではなかろうか、さらに、経済のブレークスルーも少しは楽になるのではなかろうかと思い、連載を続けております。

 

この連載の序論において夢の世界について少しだけ触れました。夢といっても様々でありまして、睡眠中に見る夢もあれば、将来展望的なことも夢と語られ、完全なるイメージの世界も夢と表現されることがあります。序論で触れた夢はイメージの世界としての夢でありまして、しかしながら、人間が心の底に持っている、それこそこの連載においては「原典」とされる原始的なものが、視覚による認知によりイメージが発生すると、そこに夢の世界が広がるというプロセスを映画の風景を事例としてご理解いただきました。

 

ここからいえることは、原始的な風景を見ると、それは心の深い層が視覚として反映されるので、それゆえに夢の世界という思いや、最近の表現方法でいうところの「癒しの風景」となります。原始的なものをイメージとして反映させる方法は、人間の手があまり加わっていないものを見る、ないし聴くことにより、それをイメージすると、心の奥深くにある目には見えないもののモチーフを視覚化することができ、それが癒しの効果を発生させます。

 

目に見えないがゆえにイライラするわけですから、それをはっきりとイメージできるとイライラは解消されるのは当然のことであると思われます。

 

これゆえに、近代における自然の破壊は自然が破壊されるだけではなく、人間の無意識を破壊してゆくことにもなり、失っていくものは非常に多いといえます。この世に人工物しかなくなれば、無意識は独り歩きをせざるをえず、そうなったとき、人間社会はどのようになってゆくのかを考えるとまさに恐怖であります。こうならないためにも、今の内から自然と人の心との共通点についての認識を啓発してゆくことができればと思っております。

 

ここまでは序論についての補足を行いました。

 

次に音についてですね。音についても上述の話と同じことでありまして、心の奥深くに存在するであろう音にかんする原典は、音ではないところに困難を極めます。心の奥深くに侵入してゆくことにより、音の基準となるラの音をとることに成功した!!などが可能であれば、その方法を考えれば事足りるのでありますが、音は実際には存在しないので、心の奥底へ行けば行くほど抜け出せなくなります。この原理を知っていればそうはならないのですけど、心の奥深くに行けば魔法の音が存在するという認識であれば、その深みにはまっていくだけのことであります。そして、なんだかわからない心のもやもやは、この事実を受け入れるまで継続されます。ここが芸術の大変なところであります。

 

この音の原典を稼働させるにはどのようにすればよいのかですが、これは序論で紹介したことを応用すると、映画を見ることによりその領域へ簡単に達することができると仮定するならば、原始的な音を聞くことにより「音を知る」ことができるのではないでしょうか。ここで問題となるのが、原始的な音であります。これが難しいのです。

 

現代人は考えに考え抜かれた、非常に意識的な音に慣れておりますので、原始的な音とは何かについてはよくわからないかと思われます。これが原始的な風景となると、存外、身近なもので知ることができますから気づきさえあればどうにでもなりますが、音は難しいのです。前稿におて鼻歌についてを少しだけ例として取り上げましたが、あの鼻歌は原始的であるがゆえに歌っている本人にとっては心安らぐものでありますが、それを聞く周りの人々に不快感が発生するとなると、そこに人工物の匂いを感じざるをえず、完全なる原始風景を描いていないと考えることも可能であります。

 

これゆえに逆の発想が必要でありまして、では、心地よい音とは何かを調べてゆくしかありません。例えば、お寺の鐘の音、こうなるとヨーロッパの教会の鐘の音はどうでしょうか?和田アキ子さんの名曲、『あの鐘を鳴らすのはあなた』をも思い出すことができますね。また、砂浜での波の音、タップダンスから考えると、靴が地面に接地するときの音なども原始的な音であると仮定すると、音の場合は風景と違い、単音で心が揺さぶられます。つまり、心の奥底での音の認識は一つの音で十分に原始的であり、一つの音をじっくりと聞くことで心の原風景に触れることになるのではなかろうかと考えております。

 

音のない状態を楽しむという音楽を提供する人もおりまして、それがジョン・ケージであります。彼の曲に『4分33秒』という曲があります。この曲は最初から最後まで全てが「休み」の状態でありまして、結局のところ何も演奏されずに4分33秒が過ぎます。これはやはり音に対する挑戦といいましょうか、音の本質を突いた音楽であるといえるでしょう。つまり、音はそもそも存在しないのであるから、音楽を聴く体制だけを整え、あとは聴衆のイメージに100%お任せするという、究極の音の表現であるかと思われます。そして、聴衆はこの曲に大きな拍手を送るのであります。

 

このように見てゆくと、無意識の可能性とはとんでもない力を持っているようにも感じます。この魅力を皆様方にお伝えすべく、今後も頑張ってゆこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。