連休の最終日、本日はエッセイにします。

 

様々なことを考えていくうちに不思議に思うことが多々あり、夜に酒を飲みながらいろいろと妄想にふける時間を作っているのですが、これもまた毎日の楽しみで、しかしながら、妄想にふけりながら、我ながらその妄想に笑いが出てくることもありまして、これゆえに妄想の時間も大切だと思うのであります。

 

そんな中でずいぶん前から思っていることは、昔話や神話は地球規模で同じような話を見ることができるのですが、音楽については全世界共通の音楽など聴いたことはなく、しかしながら、心に響く音楽は全世界に存在するこの不思議な現象であります。

 

例えば、イギリスのビートルズは地球規模で有名なバンドであります。彼らが現役で活動していたころの日本では、もちろんビートルズは流行しておりました。団塊世代の人々は彼らに熱狂した人も多く、彼らに影響を受けバンドやグループを組み、その影響で日本の音楽業界の地図も大きく変化したのでありました。しかし、ビートルズを聞きながら演歌も同時に聞く日本人の姿もありまして、これをどのように評価うすればよいのかにつて、現在の私が考えていることです。

 

この現象は80年代の中ごろまで続いていたように記憶しております(もちろん、現在でもこのような音楽の聴き方をする方はいらっしゃいます)。それこそ私が10歳くらいまで、ラジオから流れてくるのは決まったジャンルの音楽が流れてくるのではなく、ロック、演歌、ポップス、ブルース・・・ほぼカオスの状況であり、特定のジャンルの音楽が流れ続けることはなく、そのような時代が実際に存在した事実からすると、やはり、音自体は存在せず、それゆえに人類共通の音なるものは存在しないのではなかろうかと思わざるをえないのであります。

 

もう少し深くすると、人間は考えることが好きなのではなかろうかと思うのであります。音自体が存在しないのであれば、音を自分自身で考える以外に音を感じることはなく、このように考えると音楽を聴いているだけでも音のことを相当に思考しているとなります。かつてパスカルという人が「人間は考える葦」というように表現しましたが、これは人間の弱さと強みを表した言葉であります。パスカルほどになると無意識の部分の多くが意識化され、人間の驚くべき現象を目の当たりにした結果として出てきた言葉でありましょうが、音楽についても、実のところ人間の驚くほどの思考の力を集約しているものではなかろうかと思うのであります。

 

このように妄想を膨らませ、共通とは何かを音楽的に考えてみると、主体も客体も、これら相互に考えることではなかろうかと思い、アーティストはそのための素材を提供することが使命であるのではなかろうかと思うのであります。そこに音楽的なジャンルはあまり関係なく、その素材にどれほどの思いを詰め込むかであろうかと思われます。

 

このような視座になるとマーケティングの考え方も変わってくるかと思われまして、今年はどのジャンルを流行させようなどのことではなく、今年は「どんなことをみんなで考えてゆこうか?」というような、どちらかというと教育の方向へ話が進むのではなかろうかと思うのであります。こうなると、やはり、かつて孔子は音楽と教育とを同時に行っておりましたし、日本では新渡戸稲造博士も音楽教育に力を入れておられました。そして私の思考は堂々巡りしているのか?などと毎夜、酒を飲みながら妄想に浸ることが日課となっております。

 

共通というのは深く考えると面白いもので、全世界で高評価を得ることができるイカの塩辛とはどんなものか?とか、全世界で高評価を得ることができる納豆とは?など、少し癖のある食べ物を世界標準の食べ物にしようとするとき、どのような思考の変化が必要かを考えるだけでも面白いのではなかろうかと思われます。頭の中では失敗しようが成功しようが、誰にも迷惑をかけることはないので、こんなことを考えながら楽しい休日を過ごしていただければ幸いです。

 

ご高覧、ありがとうございました。