無意識とは非常に身近なものであることがこの連載にてお分かりいただけたかと思います。この点をご理解いただけると、この連載はその役割を十分に果たしたということで、今回にて結語とし、次回より別の連載を始めます。そのほうがもっと気軽に、そして応用編としても楽しく進めることができると思うからです。

 

これまで観察してきたように、無意識とは実は非常に身近なものであり、むしろ、人間の行動を支えているほとんどのことは無意識にて行われているといえます。これはユングも認めておりますし、少なくともユング派の人々はそのように考えております。逆に、意識的に行動することはそれほどないのですが、何事にも意識的に活動してゆき、意識が無意識から離れてゆくと統合失調症となってしまいます。

 

身近な無意識が意識化されるとき、その意識されているときすら無意識であることがほとんどであります。例えば、恋愛ものの映画を見て感動することはアニマ・アニムスの問題に触れていることになり、スパイ映画を見てカッコイイ!!と思ったなら英雄元型ないし影の元型に触れていることになり、竹取物語をみて不思議な感覚をもったのであればそれは子供の元型に触れていることになります。これらの物語をみて感じた感覚こそ無意識であり、それゆえに元型であります。

 

この連載での立場に立つと、今生きてる世界のほとんどは夢の世界であるともいえ、では、現実の世界とはいったい何なのだろうと考えてゆくことによって広がりを見せる世界が無意識であるといえましょう。

 

私達の行動のほとんどを無意識が支配しているがゆえに、では無意識に全てを任せてしまえばいいではないかという考えも出てくるかもしれません。しかしそうではなく、これまでの少ないながらも実例を出して考えてきたように、無意識を意識することにより、我々の行動に深みが出てくるところに注目をしていただきたいのであります。

 

例えば、人間を無意識だけでなんとかなろうものなら、10万人の群衆のなかに老賢者元型を投げ入れるとします。そうするとその10万人の全てが老賢者へと変化した!!となると、個性も何もなくなります。このような話は若返りの薬を群集の中へ投げ込むという、神話や昔話に多いですし、最終的にそのような若返りの薬を手にした人は逆に老人になるであるとか、若くなりすぎて近所の人に認識してもらえず、村から出てゆくことになったであるなどの結論へと至ります。結局のところ、おいしいところだけを取り出してもいいことはないという教訓を神話や昔話は伝え、それは心理学的に見ても同じことがいえるのではなかろうかとするものであります。

 

また、元型そのものは、元型のままでは何も作用しません。英雄元型ついて考えてみてもただの英雄というだけでは全く何の意味もなく、英雄が目の前に存在するのみとなります。この英雄元型を真の英雄とするためには、英雄とは何かを考えてゆかねばならず、その考える手段として投影があったり、転移があったりするのであります。つまり、人間の心は他者があって初めて成り立つものであり、こう考えてみると、他力本願とは、何事も人任せという意味ではなく、他者があっての自分という相互作用のありがたみを表現するものであるかと思われます。これが心理学的に見る仏教用語への解釈となっていれば幸いです。

 

フロイトが無意識を発見して以来、人の心の「なぜ?」への理解が深まってきました。つまり、心のことがよくわかってきたといえます。ただし、一般の方々へ先人たちの素晴らしい研究成果が届かない現実が私としては残念でなりません。この部分を何とかすべく、今後も書き続けようと思います。

 

この連載は今回で最後となります。次回からはエッセイなどをはさみながら、タイトルを変え、より実践的なものにしてゆく予定です。

 

ご高覧、ありがとうございました。