前稿まではシリーズで元型のことをお伝えいたしました。ユング心理学というだけで元型のことを知りたいというリクエストがあまりにも多いのが困ったものですが、元型もそれは大切なのでありますが、ユング心理学の中での元型は全体の一部でしかありませんから、元型のみを理解したところで何も理解できたことにはなりません。その点をどうぞご理解ください。では、ヒルマンの元型論はどうなるの?という疑問もあるでしょうけど、私は、個人的には元型のみを取り上げて結論を下すことには賛成できません。そういう立場の学者であります。しかし、ヒルマンを批判するわけではありません。あの方は独自に彼の世界を作り上げたわけですからその点は認めております。

 

余談ですが、2017年のハーバードビジネスレビュー(HBR、2017 July-August)に、売れる製品は過去のテクノロジーから引き継がれるという内容の論文が掲載されていました。詳細は今後に吟味しますが、これは面白い研究であります。というより、今頃になってようやくそのことが経営学において語られるようになったかという思いでありますが、人間の心に元型が存在する限りにおいて、広く受け入れられるものは既に決まっているということがここでも証明されるようであります。ただし、経営学的アプローチによるものですからどれほど心に響くかわかりません。しかし、経営学においても「過去」というものを大切にする風潮、さらにはそれがアメリカにおいて起こってきているところに着目するべきであります。新しいもの好きのアメリカにおいて、少なくとも私が留学していた頃は2年前のものは「古代」と表現されておりましたから、そこからするとものすごい進歩だと思います。

 

ここまでは無意識について吟味することが多かったのですが、本稿では意識について吟味してみようかと思います。意識について改めて知る必要もないかと思うのですが、あえてやってみようと思います。意識とは何ですか?とは、国語とは何ですか?という質問と同じであるように、返す言葉を選んでしまいますね。実のところ意識というものも意識化されいなことも多く、この問題をどのように捉えていくかがユング派の課題であるかと思われます。「book」という単語を見て、中学生以上の人はその都度「意味」を考えることがあるでしょうか?という疑問であります。勿論、その都度考える人もいらっしゃいます。しかしながら、多くの人は何も考えずに・・・

 

 

上記の絵が思い浮かぶかと思います。book→本→上記の絵 というような三段階で考える人はほとんどいないはずです。この意識化している作業自体が実のところ意識であり、これをつかさどるところが「自我」とされております。つまり、三段階であろうと瞬時であろうと、本というものを上記の絵のような形で認識するする部分が「自我」であります。ところが、とりわけ瞬時に上記の絵が浮かんでくる場合、そのプロセスは無意識であり、つまり、bookという文字を最初に認識するのは自我であり、考えるプロセスは無意識であり、最終的な回答はまた自我に戻ります。

 

ところが、多くの日本人はbookを「本」として記憶し、認識するというプロセスを経ているかと思われます。私も何を隠そう、bookは「本」と中学生の頃に教わり、その経験をもとにしてbookを現在では瞬時に認識しております。つまり、ここでは個人的無意識と自我との対応が「瞬時」という状況を作り出しているのであります。では個人的無意識に本というものが刻み込まれていない場合、どうなるかというと、刻み込むことになります。その作業をするところが自我なのでありますが、自我があまりにもこれを深く掘るとどうなるでしょうか?つまり、bookを見て「本」と考える三段階方式を常に繰り返すとどうなるかを考えますと、当然のごとく、無意識の側から「しつこいわ!!」と叱られることになり、ここに精神病医的な症状が出てくることになります。

 

先の問題へ戻しまして、では国語とは何かですが、これは日本語のことです。日本で生まれ育った人で日本語を理解できない人はこれもほとんどいらっしゃらないかと思います。識字率の問題などもありますが、日本語は何も文字だけではありません。音でも表現できますから、文字が読めなくても音で理解できている人も入れれば相当な人が日本語を理解できているかと思われます。にもかかわらず日本語とは何かと「意識」し始めるとよくわからなくなってきます。そして、日本語を意識して話している人はどれほどいるでしょうか?それと、日本語を意識しながら「使う」場合、どのように意識しているのでしょうか?という問題があります。つまり、意識の意識化であり、自我を感じるとはどのようなことであるか?という問題であります。自我を意識できれば心を操るのも簡単になるように思うのですが、実のことろこれが難しいのです。少し前にAIに無意識があれば人間に近くなると述べ大きな反響がありました。それも大切なのですが、AIに意識の意識化や自我の芽生えがない限り、AIにおける無意識を議論してもあまり意味がないものと思われます。さて、AIは人類破滅の凶器となるという意見も多くありますが、その前にAIが人間の「心」と同じようになれるかです。ましてや超えることなどできるでしょうか?知能だけが発達してもあまり意味がないかと思いますが、皆様方はいかがお考えでしょうか?

 

ご高覧、ありがとうございました。