最近では沖縄県の文化を中国哲学の視座より吟味することを試みておりますが、やはりまだ難解な部分も多いかと思われ、しかし、難解な部分を読み手なりのオリジナルな解釈をすると大きな誤解も生じることが懸念されます。とはいうものの、中国哲学という言葉の響きが、本能的に「拒絶反応」を起こし、「知りたくもない」というような現象を起こす可能性もありまして、こうなるとどうにもならないので、ここで中国哲学というものが実は西洋の哲学よりも実に楽しいものであることをご紹介していこうかと思います。

 

わが国で中国哲学という場合、それは今から2500年前の春秋時代の後期、孔子が生れ、そして活躍したころから漢代までに生まれてきた「思想」のことを指します。ですから、古代中国の思想のことを「中国哲学」と表現されており、近現代は入ってこないのが特徴です。ですから、中国は約6千年の歴史があるのですが、その中のごく一部の、それも古代中国という限られた時代のことのみを扱いますので、その意味であまり恐れる必要はないかと思われます。しかしながら、例えば、最近の発掘調査からの報告では、5千年前の動物の骨に易経と似た占いを行った形跡が発見されており、その意味で五経の内の一つの歴史が大きく覆るかもしれませんが、そこからすると、易経が五千年前からの統計的実績が元となっていると仮定すると、相当な精度を誇る占いかもしれないという仮説を立てることも可能であります。ロマンがありますね。

 

このように、中国哲学は歴史が古い分、その解釈も時代の影響を受け様々な解釈が存在しており、例えば、孔子による『論語』にも古注と新注があり、とはいうものの、新注でも朱熹の注となりますから、気が遠くなりますね。ということは当然のごとく古注と新注とで対立があり、その両方を見ていく必要があるのですが、新注でも朱熹による注ですから現代の感覚とは相当なずれがありまして、対立が対立を呼ぶ構造が慢性化しておりまして、このような状況を一言で表現すると、「カオス」であります。

 

このような状況をユング心理学の布置論により整理し、古代中国コンプレックスを整理し、克服しようとするのが私の立場ですが、これは私のような専門家の立場からのことなので一般の方々はどのようにこのカオスに立ち向かっていけばよいかというと、それは、「カオスをカオスとして理解する」ということではないでしょうか。この点について、私は道家的な立場を支持し、無知無欲の在り方を支持するものであります。現代における中国哲学は専門家の間では秩序があるのですが、それは専門家としての秩序でありまして、専門外の人からすれば「カオス」です。私も最初この学問に手を付けた時の第一印象はカオスでした。しかしながら、専門家はカオスではないと主張しているところに「対立」を感じまして、要するに、中国哲学を根本から支えているのはただ一つの言葉、そうです、「対立」を頭に入れておけば何とかなる学問であります。

 

本格的に学習するのであれば『漢書』の芸文志から七略を引き、そこから学説の分類などを吟味しながら学習するのが基本的であるかと思われますが、さて、頭が痛くなる話ですよね。欲を出せばこのような学習方法となるのですが、ここまでしなくとも、要するに、無欲な立場からすると、「中国哲学の基本は対立の状況を知ることや!」という視座で学習していくと、その他のことは自然に身につくと思われ、身につかなくとも対立の在り方が理解できただけでも中国哲学を知っていくうえで十分な成果だと思えます。

 

いろいろと書いてみましたが、私がこのコラムで主張したかったのはとにかく、中国哲学を難しく考える必要はないということです。特に道家の立場は音楽でいうと「ジミヘン」がピッタリです。ゆえに、私の研究の方法は実は儒家的な方法で進められているように思われがちですが、それは方法論でありまして、思想は道家の思想です。儒家と道家は対立しますが、さて、私は自身として対立しているのでしょうか?思想としては対立しますが、私の生き方としてはマッチしております。不思議ですね。そして面白いですね、中国哲学。これは分離というものがなせる業なのですが、これについては心理学の力を援用しながら、もっと後で述べていこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。