経済学的なことから書き初めまして、ついに7回目を迎え、既に経営学の領域へ、しかも各論編に入っているのですが、この論文も誰のために書いているのかよくわからなくなってきているのもあるのですが、なんでしょうね、最近の心理学への欲求の高さというものを感じざるをえず、なぜこのような社会となったのか、私が言いたいことは、なぜそこまでして心理学が必要とされるのかについての皆様方へ逆に質問してみたいのですが、それにしてもインターネットの発達によりこれほどまでに人との接触に恵まれ、ゆえに人間への理解も世界規模でなされるようになりながら、逆に心は病んでいくというこのサイクルに関して、これは専門家として何とかしないといけないという使命と、それにしても大変な時代に専門家として世に出てしまったという、まさに不安感が入り混じっておりまして、これが超越機能を起こせばいいのですが、否、そうなるように心を整えているところですが、その不安な面が文面に出ていたとしても事は進めていきますので、ご安心ください。

 

最近はあまり実務の現場にて言われなくなった知識創造の理論ですが、確かに私がパナソニックに勤務していたころを思い出しても、この理論だけではなく、その他の経営理論もほとんど使用されることもなく、OBに大学教授や講師などもたくさん抱えるパナソニックでありますが、実際にはやはり「実践」が一番重要視され、当時は留学生でありながらパナソニックで勤務しておりました私に求められることも英語の「習得方法」であり、経営学については一切求められませんでした。しかし気になるのはその「習得方法」についてでありまして、文法や構文などついての解説は求められず、一瞬にして英語ができるようになる方法を聴くことに関しては、ありえないくらいの圧力を感じるくらいの勢いで、その方法を求められていまして、ここに非常に苦労した経験があります。野中先生のいうところの「知識創造」ないし、「知識転移」はこのことをいうのではないかと思います。ところが、やはり何度考えてもこれはものすごく難しいことでありまして、例えば、私はもともと落ちこぼれでしたから英語の習得にはかなり苦労しておりまして、それ故にある程度の力を手に入れてからは既にその時のこと、すなわち、勉強法や気持ちの切り替えのプロセスなど、要するに、苦労した部分であり、しかも、聞き手が一番知りたい部分については記憶から飛んでしまっているわけです。これは心理学的には当たり前のことで、その辛いことを全て覚えていると生きてはおれず、忘れることは当然であるとされておりますし、実際に忘れております。そしてその記憶はどこに格納されるかというと、「個人的無意識」です。そしてこの個人的無意識は一言で表現すると「コンプレックス」とすることができるように、今回の英語の話だけに限定すると、「辛かったこと」のみがここに詰め込まれておりまして、皆が一番聞きたい話は、語り手にとっては一番苦痛な部分でありまして、ましてやこれをその場にいる多数の人々と共有するなど、ありえない話であります。ですから、どうしても比喩的表現となり、現実から逃げるような発言へとつながり、「ダメ教師」のレッテルを貼られるのが落ちというものです。

 

これが例えば、パナソニックという家電メーカーとしての性格をもっとよく表した事例をいきますと、例えば私が所属していた電子レンジ事業部では電子レンジを組み立てる工程がありました。組み立ての基本はやはり「ビス打ち」となりますが、それを行うのに「電動ドライバー(以下、電ドラ)」を使用します。この電ドラをいかにして使いこなすことができるかについてがこの工程での、さらにはこのラインにて仕事をする人々の自己同一性を決定する要因でありまして、電ドラをうまく扱うことができる人は必ず上工程での、それも、かなり小さく、細やかなビスを芸術的に打っていける人が就き、そこに先輩や後輩、年齢や正社員や派遣社員も関係なく、優秀な「ビス打ち職人」がそのポジションを獲得することがルールでありました。そしてなぜそのビス打ち職人がそのポジションを独占することが可能かというと、「芸術的なビス打ち」について、普遍性に満ちた説明をすることができないからであります。それができればそのポジションを誰もが交代で入ることが可能となり、特定の人物への負担も少なくなるのですが、それがなかなかできないがゆえに、知識転移は「難しい」となるわけです。ではなぜ難しいかというと、無意識を意識化しなくてはならず、それは相当な困難を伴うということが、この例でもお分かりいただけるかと思います。

 

このようなこともあり、実際の労働の現場ではこの理論については否定的なことを主張する人も多かったのも事実で、私の勉強会へ参加していたOBで、その当時にある大学にて教授をしておられた数人の先生方も実践には活かしにくいとの声をいただいたのも記憶に新しいです。そこで私もいろいろと考えてみたのですが、この「転移」というものはカウンセリングの実際場面で起こること、または「起こらないといけないかもしれない現象」として実際に存在します。ですから、その意味で、深層心理学的にみてもこの「転移」や知識スパイラルの現象そのものについては間違いではないものの、そこに「苦痛」を伴うのであれば、今風にいうと「ブラック企業」として称される危険もあり、このことがやはり、この理論を実践する企業の困難性の現象にもつながっているかと思うのです。しかしながら、この理論がなぜこのように行き詰まるかと考えるとき、やはり、哲学による「知識」というものにとらわれすぎ、創造性というキーワードに欠落を見ることができます。哲学に創造性の議論がないわけではありません。私が何度も紹介しておりますカッシーラーなどは芸術論や創造論を形式や象徴というもので表現しておりますが、そのプロセスについてはやはり弱いと言わざるをえません。そこを補うものとして私はユングを援用するのですが、ユング、そしてフロイトもそうですが、彼らは芸術家の心理的プロセスを研究することにより、心のあり方を解明していこうとしたこともあり、その意味で創造のプロセス、いわゆる、「生み出すことのプロセス」を詳細に語った人物たちであるといえるでありましょう。

 

しかし、ここで大きな問題がありまして、例えばユングが主張するところを翻訳してみますと、「苦しいからいいのだ!」という結論にいたりまして、皮肉にも、私の芸術家としての経験からしても、心が落ち着かない、ぐらぐらで、不安なことが多ければ多いほど、ステージの完成度は高くなります。客席からの拍手が多い時というのは常に、ステージ立っている人物は「死にたいくらいに辛い時」でありまして、この幸と不幸という対立がリビドーとなり、これが超越機能を果した時、そこにフロー体験に通じる良い結果が出るということに相関性が認められるといわざるをえない限り、現代企業における知識創造企業の在り方に真の問題が出てくるかと思われます。つまりそれは、「対立」という問題であります。知識創造企業における諸問題の最大の問題としてこの対立を避けては通れないような気がしてなりません。これを組織の問題としてどのように対処し、ヌミノースを感じ取ることができるかについて、そのポイントとなるかと思われます。

 

今回はここで筆をおくことにします。ご高覧、ありがとうございました。