前回は野中 郁次郎先生の功績を明らかにし、そ上で改めて知識創造理論を見なす試みを行いました。企業において創造的活動とは何かという問題は非常に大きな問題であるにもかかわらず、野中理論が出てくるまではどちらかというとそのような意見はタブーとされてきておりましたから、その意味で当時の学会は騒然となったわけです。しかながら、とりわけ、人文科学の分野の視点からすると、物足りない部分があり、当時、私の大学の人文科学研究科のある名の知れた教授と本書について議論した時に、やはり、社会科学者の時代遅れを見事に指摘されまして、ましてや中国哲学の分野からすると2500年ほど遅れた議論ともなりかねず、私の知識の無さも相乗効果となり、人文科学の人から身も心もボロボロにされた苦い経験があるのですが、その経験をもとにしますと、やはり思想の根本へ接近することを避けるような行動が目についたことをあげることができます。

なぜ経営学の分野でそのようなことになったかですが、これはやはり学生運動前と後で考えないといけないようですが、私の恩師、学生運動前を知っている当時の主任教授ですが、当時の神戸大学の平井研究室においてもさかんに議論されていたそうですが、実際に役に立つことを学問として確立させるのか、それとも外国語、とりわけ英語を武器にして文献による、現在的な意味での基礎研究を大学教育の主とするのかで割れた結果、学生運動へと発展したそうですが、その結果、英語を使った外国文献の基礎研究を主軸とする方向へ学会全体が流れ、平井研究室もその波にのまれたという大まかな歴史の流れがあるようです。こうなると、それ以降の運びは外国文献研究が主たる経営学の仕事となり、おおよそ、企業経営の実際とは大きな乖離を生むようになったと私は聞いております。

この歴史の流れの詳細については学生運動の歴史書を頼りにしていただければいいのですが、私が大学院に進学した当時は正に英語が第一で、経営の現場からは完全に隔離された世界であったことは事実であります。ようするに、学生運動の結果をあの当時まで尾を引いていたわけですから、思想というのは恐るべき効果がありますし、しかし、英語の教科書に形而上の思想を求めていたと考えると、その当時の多くの学者達はある一つの真理を得ていたことになり、そこに現実社会とはかけ離れた世界を作り上げることになったと考えられます。ちなみに、これは全ての学者がそうであったわけではありません。

そこに野中理論が登場し、真理の追究の方向性について大きな変更が生じたのでした。それは現実の経営の問題について探求するという、かなり革新的な考え方でありました。そして学会はその方向へ大きく舵を切るようになるのですが、そこに含まれていたのが「哲学」という学問分野でありまして、その中に私が副教科として学んでおりました新カント派の議論も盛り込んであり、その意味で非常に興味をそそられたのですが、たくさんの学派の意見を一気に詰め込んだ感があり、それ故に、なぜ行くつく先が「知識の二分」となるのかについて、その原理を捉えるのに一苦労した経験があります。知識の二分の原理としてポランニーであることは十分に理解できるのですが、故に知識は合計3分割され、うち二つは暗黙知に分類され、もう一つは形式知に類型化されるということですが、それが動的であることの原理について不明瞭な点があり、この点を哲学とポランニー理論にてどのようにして解決させるかが非常に大きな問題になるかと思います。

論理的な構造としてはユング心理学と似ているのですが、いわゆるリビドーとの関係における超越機能というダイナミズムを考慮するとき、人がそんな簡単に暗黙知を共有できるのかという大きな問題へと導かれます。暗黙知とは認識の問題として、限りなく個人的無意識に接近した議論でありまして、なぜ言葉にできないかを考えた時に、それは無意識下へ抑圧せざるをえない知識であるかもしれず、それを同僚と共有するとなるとかなりの哲学が要求されると予想できますが、皆様方はいかがお考えでしょうか。また、イメージとして暗黙知を捉える場合、それは元型イメージを意識せざるをえず、例えば、太母の像を従業員同士で共有するとはどのようなことか?など、企業という集団において、言葉にならない知識を共有するというのは、本当の意味で創造的になるのかについて、今の時代だからこそ改めて考えてみる必要があるかと思います。何度も繰り返しますが、これは野中理論を批判するものではなく、私なりの意見を「追加」しているにすぎません。そこをご理解ください。

次回からはこの点に注目しながら話を展開していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。