前回は経済学的な観点から経営という具体的な現象を考えてみることを時系列的に概観しました。これはあくまでも概観ですから、本来ならばその歴史だけでも数冊の書を築き上げることができるくらいの内容のことですが、現実的な経営を考えていく際にそこまで知ったところで大きなメリットはありませんから、「経済学は経営学の父」という、その基本中の基本だけを頭に入れていただければと思います。
そこで今回からは経営学の話となるのですが、経営学とはすなわち、人を直接扱う学問となります。人を動かすにはどうすればいいのかとか、人にモノを買ってもらうにはどうすればいいのか、また、人に伝えるにはどうすればいいのかを「組織」というものを通じて考えていく学問であります。日本でのその由来は神戸大学の平井泰太郎 博士がその基礎を作りました。平井先生の著作物の原本を数冊所有しておりますが、これがまた非常に実践的であり、その精神を我々の世代においても引き継がなければならないと思い、日々精進しているわけです。現実の経営というものは論理的に進むわけがなく、もしそんなことが可能であるならば、関数を人間にインプットすればいいだけの話でありますが、人が組織の中でロボットのように動かないがゆえに経営学という学問が生まれたわけです。ところが現実の経営学は科学的であることを要求されたためか、非常に抽象的であり、またその抽象性に科学的根拠を付加され発展してきた歴史があるがゆえに、実践には不向きであるとの大きな問題が生じたのでありました。日本での経営学の初期は非常に人間的であったにもかかわらず、30年ほど前においては科学的にありすぎ、それ故に実業界からの批判も相次ぎ、そこで経営学会は新しい行動をとり、そこで主要な議論となってきだしたのが「人間中心」とか「実践」を中心とした経営学であります。もとより、実務から生まれてきた、事例研究が中心の経営学へとシフトしてきたのでした。そのアプローチは主にアメリカの有名大学にて行われてきた方法を取り入れることにより日本の経営学は新たなる道を模索するのでした。
ちょうどその歴史の転換点に私は大学生となったわけでありまして、そこで出会ったのが野中理論、いわゆる「知識創造理論」であります。この理論には相当に啓蒙させられまして、経営学に人間性を求めていいのだ!!などと、よく考えてみると当たり前のことに感動を覚えたのを今でも鮮明に記憶しております。この当時はこの他にも「場」の理論を応用した理論が展開されるなど、新しい理論が次々と学会に登場し、その都度、「頭のいい人は根本的に違いがある」と自分の非力さを思い知るに至ったのもこの時期であります。その意味で、今の本屋さんで経営学の書棚を見てください。新しい理論書がほとんど出ていない。しかも、学者が新たなる理論を展開できていないことに大きなショックを感じておりまして、今現在の経営学の領域は危機的な状況であることは否めません。
ところで、経営学は人間を扱うがゆえに人間を中心とした考え方が必要ということで、いよいよ本来の経営学というものを我々は体験することになるのですが、その第一弾が、前述の知識創造理論であります。具体的な書名を記述いたしますと、野中郁次郎・竹内弘高 著、梅本勝博 訳 『知識創造企業』 東洋経済新報社 であります。これが出たときは衝撃的でした。というのも、私はそのころ既に哲学や心理学、とりわけ哲学分野では新カント派のカッシーラー、心理学分野ではユングの方に基礎理念の確立のための研究に取り組んでおり、ここに共通するのは「統合」というものであり、これまでバラバラであったものを統合し、理論の再構築を目指す、まさにその心理を心得ようとしていたところに知識創造理論が日本の学会に登場しまして、その時の私ような研究のアプローチは非常に既存の経営学者からは嫌わるやり方であったがゆえに、学際的研究を専門分野にまで高めていく方法論が、あの経営学会で認められたということに歴史の大きな転換点を感じたのでありました。
そのような経営学に対する新しい歴史の流れを感じつつ、人間主体の経営学を展開した知識創造理論を読み進めていきますと、組織と知識、それに人間関係に対する真摯な姿勢を読み取ることができ、またそれが見事なまでに「ミックス」され、これまで経営学の学際的研究といえば「木に竹を接ぐ」ような議論が主流であったこともあり、その研究のアプローチに関しては非常に参考となるに至りました。しかし、知識を主に哲学に求めた点、知識を二分する区分原理に対する疑問、知識と組織構造に関する関連が急展開するなど、いわゆる「人間」そのものにせまり、それを組織という「集合」にまで格上げされた議論ではないことが気になるようになりまして、それ以降、私はこれらの点を穴埋めしていくべく、経営学理論の展開を図っていくようになります。ですから、野中先生の知識創造理論は私の原点であり、学者としての私を構成する核の部分に相当するがゆえに、この点にこだわっているわけであります。
本日はここまでにしておきまして、次回以降に各論に入っていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。