読書メモ:『天界と地獄』
『天界と地獄』(E.スウェーデンボルグ著、宮崎伸治訳、ミヤオパブリッシング)
「語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない」(ヴィトゲンシュタイン)。確かにそうだ。近代とはそういう精神が支配した世界のことである。近代哲学の祖であるカントは、この本を徹底的に批判し、『霊視者の夢』を経て出来たものが『純粋理性批判』と言われる。だが。中世において夢と現実は等価であった。そして著者は、極めて覚醒した状態で、そして恐らくは本来は夢の世界で霊界に入り込んで死後の世界を調査した。カントと同時代に生きた著者は、中世の流儀でもってこの「死後裁きに合う」世界を調査した。
鉱物学を中心とした自然科学の世界で数多くの成果を収め、地位も名誉もあったが、後半生において著者が情熱を傾けたのは神秘学と神秘現象であった。
で。自分がこの本の要約に触れたのは二十歳過ぎの頃。オウム真理教に誘われたりしていた頃だ。あっちに行かなかったのは、この本に触れていたためかも知れない。近代に向かって進みつつある時代に書かれた本とはいえ、人間は死ねば「死後の復活の時まで眠った状態」であるとカトリック世界が「教えていた」時代に、このような本を出すことは本来命がけであったはずである。というのは、読めば分かるが死後にこそ、肉の束縛を受けた人間の本体=霊性が解放され、本質を露わに覚醒するというのだから。時が時なら死刑モノである。そういうわけで、若い日の小生は「スウェデンボルグは少なくとも自分に嘘はついていない人だ」と思った。
ヴィトゲンシュタインに戻る。「語り得ぬことについては、しゃべりたくなる」と混ぜっ返したのはスラヴォイ・ジジェクだったか。自分自身も、三〇歳前後からオカルトめいた体験を何度か繰り返し、また、子供の頃溺死しかけた経験から、人間は死んだら何もかも終わり、とはとても思えない感覚がある。そういうわけで、死後の世界について考えることは意味のあること、言ってみれば生を考えるための補助線であると思っている。
で、この本だが、父の死の直後の小生が夢枕――それも殆ど覚醒した状態の――で父親に聞いた話と結構一致していた。父は天国も地獄もなさそうなことを言っていたが、それはあくまで死後の世界の入り口にいたためであろう。それと、「地獄も一定住処ぞかし」。似た者同士は居心地がいいから、霊同士集まるのだが、それが地獄に見えたり、天界に見えたり、ということ。
また、パリサイ人と善きサマリア人を思い出す話もあった。ってか、内容そのものは同じことをちょっと角度を変えて説くという宗教話らしい面も。「神」を語りながら全く神の御心に沿わない宗教家は地獄に行くし、神を信じていないにしても、御心に適うものは天のいと高きところにホザンナというわけである。
それで思い出したのは、霊格の高そうな人と、第六感で感じた人の多くは無名の共産主義者が多いよなあ、という自分の体験。それは釜ヶ崎にいたり、町工場で働いていたりしていた人たちである。共産主義者=無神論者だから地獄行きなどというのは、絶対に嘘だと思う。そんな「名称」は神の思し召しと関係ない。そんなことを信じている人は、「善きサマリア人」を思い出すのがいい。悔い改めよ、ということである。
それから、どうして死後の世界を分からないように神は世界を作りたもうたか。これは別の宗教、古代インド哲学が一定の答えを出している(この本とは無関係だが)。すなわち、生が一度きりであるということにしなくては、だらだらとした生への甘えが生じるからである。死後の世界はあるにせよ、「ない」と思い定めることで生を充実できるのだ。
また、どうして物質世界を神は作りたもうたか、あるいは、ヴィトゲンシュタイン流に言うならば「世界が#ある#ということの神秘」は何ゆえか? それについては自分としては分からない。ただ、別のオカルト流儀で聞いた話では、物質世界は様々な霊を、「平等に」この世に落とすことにより、それぞれ学び合い――霊界では居心地の良い者同士引き合うから――、高め合うため、ということらしい。
というわけで、こんな本を読んで、読書メモまで作っておきながら、言うのもなんだが「死んだら終わり」という素朴な唯物論こそが神の御心に適っていると言えなくもない。まあ、天界の天使たちに怒られそうだが(汗)。それと、この本を素直に取ると、人の世のことはやっぱり、弁証法的に理解するのが良さげである。唯物弁証法万歳!
というわけで、各章ごとに。
(続)
第一章は「精霊界 人間が死んだ後すぐに行くところ」と題して。
・精霊界は天国でも地獄でもない、中間の場所。というか、入り口。
・数週間で次に行く人もいれば、何年もいる人もいる。が、三〇年以上留まる人はいないらしい。
・親子兄弟、夫婦は望めば会えるが、この世で狽チた性格が皆違うので、やがて離れ離れに。
・悪に快感を覚えていた者は、悪臭を好むようになり、そういう場所に行く。
・人間の理性的精神には二つの道があり、内的な道を通じて神から善と真理が、外的な道を通じて地獄から悪と虚偽が入り込む。
・個人的意見を二つほど。善悪二元(分離)論、これは仏教徒として是と出来ない。一方、徹底した外部注入論。これは是としたい。
・抽象的なことを考えているとき、人間は霊の状態にある。
・死後、肉体から離脱すると、霊は眠るのではなく、完全に目覚めた状態になる。触覚は何倍も鋭敏になっている。当面の姿は生きていた時と変わらない。
・精霊たちから見れば、人間が死後も「生きる」ことを信じていない、多分正確には考えていないことをとても不思議なこと。教会関係者でさえも、死後の世界を知らないことに驚くほど。但し、後ろの記述からは、これは意志、感情と結びついたときだけかな。自然界レベルの記憶はあの世で再現されないと書かれているから。
・霊の見た目は、生きていた時の性向(愛していたもの)に似てくる。
・物質界での人間の記憶よりも、霊としての記憶のほうが詳細である。神が望めば再現される。人間はすべての記憶を携えている。(引き出せないだけとはよく言われること)
・だから、死後裁きに合うとき、隠し立ては一切出来ないのだ。(ルカによる福音書、一二・二~三)
・思考と意志は脳のみならず、体にも刻まれる。
・霊的レベルで考えるとは、知的(理性的)に考えるということ。但し、ここで言う理性とは、近代的な理性とはちょっと違うように感じる。
・というのは、これらの理性は「天界の光」なくしては成長しないものとされるからだ。
・真理には社会的真理、道徳的真理、霊的真理の三つがある。社会的真理は立法や行政に、道徳的真理は、誠実かつ正しい世俗のこと、霊的真理は天界と教会の物事に関わっている。
・自己愛は浮「。真理を自分に仕えさせるがゆえに、理性が成長しなくなる。隣人愛がャCント。
・どんな霊や天使もこの世にいたときの性向がそのまま残り、それがその後完成されていくことになる。死んだあと悔い改めても生き方は変えられない。
・この世で世俗を完全に捨てて生きた人は救われない。社会的真理、道徳的真理に関する理性が成長しないからだ。
・人間は意志するものを意図する。天界に意図が向けられるならば、精神は天界にある。神の教えに反することをしないだけでいい。神の前の誠意、ということか。
第二章は「天界の生活 仕事・結婚・住居」と題して。
・天使たちは大小様々な村に分かれて暮らす。彼らは自分が従事する活動をもっている。
・愛、知性、知恵において優れる者が中央にいるという階層構造。似た者同士は引き寄せられる。自由が感じられ、くつろげるからである。
・天使たちの状態は変化し続ける。昼と夜が変わるように、天界からの光の度合いが変わり、それに応じて愛に満ちていたり、影と寒さの中にいて憂鬱に満ちていたり。
・神は天使によって現れ方が異なる。光のようだが、強度が違う。
・住居は霊格によって決まるみたいだ。豪邸もあれば普通の住居もある。居間、寝室、中庭。宮殿も。宮殿では何もかもが輝いている。建築件pの神髄。
・幼くして死んだ者は、天界で教育される。地獄に行く人は、この世での過ごし方によるので、本人の責任らしい。幼児にはない。教育かかりの天使(この世で母性愛からどの幼児も愛していた女性)がいる。幼児は、天使になる初歩段階にいる。
・無邪気さは天界のすべてのものを受け入れる。幼児はみな、神から直接保護されている。
・まずは言葉の教育。幼児の好む愉快なものが使われるようだ。
・感情から発した思考概念こそ、天使が話すあらゆる言葉のもとになっている。
・幼児は言葉を覚えたら、第二ステージに。次は知恵に満ち溢れたイメージによる指導。
・成長した幼児は、成人の大人の姿になる。
・結婚は天界の天使の繁殖の機会でもあり、極めて聖なるものである。姦淫の享楽は地獄の享楽。
・天界における活動とは善行であり、善行とは自らを役立てること。管理機構は神の秩序により、天使たちが運営する。それは多くある。善行そのもので尊敬される。
・異教徒も天界に導かれる。悪い思想や感情から遠ざけるために、受け入れられる限りの善い感情を吹き込む。
・天界で生きるために必要なものは全て無料で与えられる。共産主義なのだ。
・天界では誰もが自分に相応しい仕事に就いている。これも共産主義なのだ。
第三章は「天界の喜び 天使の力・知恵・愛」と題して。
・天使は眼力(めぢから)だけで悪霊を圧刀E一曹ナきる。一瞥で万事を見通す。場合によっては地上でその力を発揮する。(サムエル記下二四・一六~一七)
・真理なければ善に力なし、信仰は真理である。
・天使が人間に話しかけるとき、人間(の霊的思考)と合体し、人間が理解できる手段を用いる。その様子は、人間が自ら思考して話しているかのようである。但しそれは危険なので、余り許されていない。
・人間にとって霊は危険なので、気づいても話しかけてはならない。
・特に狂信者の霊は虚偽を真理だと思い込んでいて、取り憑いた人にその虚偽を信じ込ませる。
・かつて天使と人は結びついていたが、人はこの世を愛するようになり、天使から離れた。
・天使は直接人に働きかけず、代理霊に自分の姿を見せて預言者に言葉を吹き込むようになった。
・天使の「言葉」は、恐らくイメージに属するもの。人語で表現できないものも表現する。
・善霊、悪霊、精霊。人間はこれらの影響から逃れられない。ただ身を律すること。
・死後二日の霊。「感覚も願望も、地上にいたときと同じです」
・賢者キケロ。「生命に関わらない知恵などありません。生命に関わらないものは知恵とは言えません」
・現代ではキリスト教徒よりも異教徒のほうが天界に入り易い。「先のものが後となり、後のものが先となる」(ルカによる福音書一三・二九~三〇)。なぜならば、彼らは純真だからだ。
・天使曰く「キリスト教の教義は、地上の他のどの宗教の教義より愛と慈愛を説いています。しかし、そのとおりに生きている人はほとんどいません」(p130)
・真理や善をどれだけ愛したかで人間は量られる。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカによる福音書六・三八)
・推論能力がいくら優れていても、神への愛、隣人愛がなければ「クラゲ骨なし」である。五感のみが全ての源泉であると考える者を感覚的人間とスウェデンボルグは呼び、古代人は「知識の木のへび」と呼んだ。
・五感に知られる物質世界の記憶は、霊界ではフリーズされる。五感を用いて磨かれた理性だけが意味がある。科学的知識は人間を賢明にするが、それは実践を通じて人の役に立った場合だけである。って、エンゲルスかよ。
・人の精神は土のように耕し方次第で変わる。
・贅沢は素敵だ。そのこと自身は天界に入る/入らないとは関係ない。
・「人間は行為のもとである思考や愛情によって裁かれ、報われる」(p144)
・「貧しい者」とは、善と心理の知識に乏しいために、それらを求めている者。悪人正機説なのだ。
・世捨て人は隣人愛を実践できないので、天界に入ることはない。
・天界の天使は、自分の喜びを他者と分かち合うことに喜びを感じる。神への愛はみなの幸せを願うことであり、分かち合う愛。共産主義じゃねえか。
・天使は自分を愛する以上に隣人を愛する。地上と違い、自らの身体を気遣う必要がないためである。肉の束縛がないためである。
・霊の持つ善や慈愛が外面化される。天界では年を経ると若返る。
第四章は「地獄で暮らす悪霊たち 自己愛に生きた者の末路」と題して。
・例えば権力者だった霊。神について言及すると憎悪をむき出しにし、悪魔と化した。
・高い地位にあった僧侶も、自分のことしか考えていなかったことが天使に分かり、仕事から追放された。
・世俗愛は自己愛ほど悪くはない。富そのものは悪ではない。富の善悪は何に役立てたいかで量られる。
・「地獄の火」は自己愛や世俗愛から悪事をなそうとする欲念のことである。地獄ではそのような猛火が燃え盛る。(但し、天界から熱が入ると、地獄の熱は寒さに変わる。地獄での反乱が異常に増えると、そのようなことが起こる)。
・支配する快感は、(現代の表現で言えば)サディズムと結びついている。
・同じ欲念を持つ霊がその霊気を感じると快感でみたされ、その方向に進むために、地獄に相応しい霊は地獄に進む。
・地獄の奥底ほど悪辣な霊がいる。嫌がらせ、虐待、奴隷。だが、常に反乱があるので、常に下克上。
・天使が知恵と知性を持つがごとく、地獄霊は悪意と狡猾さを持つ。肉の束縛がなくなったがゆえに、それらはむき出しになる。
・最悪の悪霊は、自己愛から悪に浸り、故意に詐欺を働く霊である。霊魔と呼ぶ。霊魔は思考ではなく感情に訴えかけて人間に流れ込む。
・神は悪霊から人間を引き離そうとする。神を否定する人に対しても。そのために、法や揩l間に作らせたのかな。
・霊界の外観は、この世と変わらない。この世からあの世に行っても、人間は霊界入りしたことがなかなか理解できない。天界は精霊界(入口)からは見えない。天使たちは より内的な状態にあるため、精霊の視力ではとらえられないためである。
・地獄にも天界と同じく、無数の村がある。それぞれの悪に応じて、極めて秩序だって整理区分されている。
・人間は神から自由を与えられている。それは人間が「悔い改める」ためである。人間は善く考えることも、悪く考えることも、誠実に考えることも、不誠実に考えることもできる。
・善から悪は見えるが、悪から善は見えない。行為への欲(意志)がなくては、人の行為は身につかない。思考は記憶から生じるが、意志は生命そのものから生じる。
・スウェデンボルグの自由に関する考えは『天界の秘儀』にある。
というわけで、近代における唯物弁証法、共産主義は神の御心に適っていると言わざるを得ないのであった。
「語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない」(ヴィトゲンシュタイン)。確かにそうだ。近代とはそういう精神が支配した世界のことである。近代哲学の祖であるカントは、この本を徹底的に批判し、『霊視者の夢』を経て出来たものが『純粋理性批判』と言われる。だが。中世において夢と現実は等価であった。そして著者は、極めて覚醒した状態で、そして恐らくは本来は夢の世界で霊界に入り込んで死後の世界を調査した。カントと同時代に生きた著者は、中世の流儀でもってこの「死後裁きに合う」世界を調査した。
鉱物学を中心とした自然科学の世界で数多くの成果を収め、地位も名誉もあったが、後半生において著者が情熱を傾けたのは神秘学と神秘現象であった。
で。自分がこの本の要約に触れたのは二十歳過ぎの頃。オウム真理教に誘われたりしていた頃だ。あっちに行かなかったのは、この本に触れていたためかも知れない。近代に向かって進みつつある時代に書かれた本とはいえ、人間は死ねば「死後の復活の時まで眠った状態」であるとカトリック世界が「教えていた」時代に、このような本を出すことは本来命がけであったはずである。というのは、読めば分かるが死後にこそ、肉の束縛を受けた人間の本体=霊性が解放され、本質を露わに覚醒するというのだから。時が時なら死刑モノである。そういうわけで、若い日の小生は「スウェデンボルグは少なくとも自分に嘘はついていない人だ」と思った。
ヴィトゲンシュタインに戻る。「語り得ぬことについては、しゃべりたくなる」と混ぜっ返したのはスラヴォイ・ジジェクだったか。自分自身も、三〇歳前後からオカルトめいた体験を何度か繰り返し、また、子供の頃溺死しかけた経験から、人間は死んだら何もかも終わり、とはとても思えない感覚がある。そういうわけで、死後の世界について考えることは意味のあること、言ってみれば生を考えるための補助線であると思っている。
で、この本だが、父の死の直後の小生が夢枕――それも殆ど覚醒した状態の――で父親に聞いた話と結構一致していた。父は天国も地獄もなさそうなことを言っていたが、それはあくまで死後の世界の入り口にいたためであろう。それと、「地獄も一定住処ぞかし」。似た者同士は居心地がいいから、霊同士集まるのだが、それが地獄に見えたり、天界に見えたり、ということ。
また、パリサイ人と善きサマリア人を思い出す話もあった。ってか、内容そのものは同じことをちょっと角度を変えて説くという宗教話らしい面も。「神」を語りながら全く神の御心に沿わない宗教家は地獄に行くし、神を信じていないにしても、御心に適うものは天のいと高きところにホザンナというわけである。
それで思い出したのは、霊格の高そうな人と、第六感で感じた人の多くは無名の共産主義者が多いよなあ、という自分の体験。それは釜ヶ崎にいたり、町工場で働いていたりしていた人たちである。共産主義者=無神論者だから地獄行きなどというのは、絶対に嘘だと思う。そんな「名称」は神の思し召しと関係ない。そんなことを信じている人は、「善きサマリア人」を思い出すのがいい。悔い改めよ、ということである。
それから、どうして死後の世界を分からないように神は世界を作りたもうたか。これは別の宗教、古代インド哲学が一定の答えを出している(この本とは無関係だが)。すなわち、生が一度きりであるということにしなくては、だらだらとした生への甘えが生じるからである。死後の世界はあるにせよ、「ない」と思い定めることで生を充実できるのだ。
また、どうして物質世界を神は作りたもうたか、あるいは、ヴィトゲンシュタイン流に言うならば「世界が#ある#ということの神秘」は何ゆえか? それについては自分としては分からない。ただ、別のオカルト流儀で聞いた話では、物質世界は様々な霊を、「平等に」この世に落とすことにより、それぞれ学び合い――霊界では居心地の良い者同士引き合うから――、高め合うため、ということらしい。
というわけで、こんな本を読んで、読書メモまで作っておきながら、言うのもなんだが「死んだら終わり」という素朴な唯物論こそが神の御心に適っていると言えなくもない。まあ、天界の天使たちに怒られそうだが(汗)。それと、この本を素直に取ると、人の世のことはやっぱり、弁証法的に理解するのが良さげである。唯物弁証法万歳!
というわけで、各章ごとに。
(続)
第一章は「精霊界 人間が死んだ後すぐに行くところ」と題して。
・精霊界は天国でも地獄でもない、中間の場所。というか、入り口。
・数週間で次に行く人もいれば、何年もいる人もいる。が、三〇年以上留まる人はいないらしい。
・親子兄弟、夫婦は望めば会えるが、この世で狽チた性格が皆違うので、やがて離れ離れに。
・悪に快感を覚えていた者は、悪臭を好むようになり、そういう場所に行く。
・人間の理性的精神には二つの道があり、内的な道を通じて神から善と真理が、外的な道を通じて地獄から悪と虚偽が入り込む。
・個人的意見を二つほど。善悪二元(分離)論、これは仏教徒として是と出来ない。一方、徹底した外部注入論。これは是としたい。
・抽象的なことを考えているとき、人間は霊の状態にある。
・死後、肉体から離脱すると、霊は眠るのではなく、完全に目覚めた状態になる。触覚は何倍も鋭敏になっている。当面の姿は生きていた時と変わらない。
・精霊たちから見れば、人間が死後も「生きる」ことを信じていない、多分正確には考えていないことをとても不思議なこと。教会関係者でさえも、死後の世界を知らないことに驚くほど。但し、後ろの記述からは、これは意志、感情と結びついたときだけかな。自然界レベルの記憶はあの世で再現されないと書かれているから。
・霊の見た目は、生きていた時の性向(愛していたもの)に似てくる。
・物質界での人間の記憶よりも、霊としての記憶のほうが詳細である。神が望めば再現される。人間はすべての記憶を携えている。(引き出せないだけとはよく言われること)
・だから、死後裁きに合うとき、隠し立ては一切出来ないのだ。(ルカによる福音書、一二・二~三)
・思考と意志は脳のみならず、体にも刻まれる。
・霊的レベルで考えるとは、知的(理性的)に考えるということ。但し、ここで言う理性とは、近代的な理性とはちょっと違うように感じる。
・というのは、これらの理性は「天界の光」なくしては成長しないものとされるからだ。
・真理には社会的真理、道徳的真理、霊的真理の三つがある。社会的真理は立法や行政に、道徳的真理は、誠実かつ正しい世俗のこと、霊的真理は天界と教会の物事に関わっている。
・自己愛は浮「。真理を自分に仕えさせるがゆえに、理性が成長しなくなる。隣人愛がャCント。
・どんな霊や天使もこの世にいたときの性向がそのまま残り、それがその後完成されていくことになる。死んだあと悔い改めても生き方は変えられない。
・この世で世俗を完全に捨てて生きた人は救われない。社会的真理、道徳的真理に関する理性が成長しないからだ。
・人間は意志するものを意図する。天界に意図が向けられるならば、精神は天界にある。神の教えに反することをしないだけでいい。神の前の誠意、ということか。
第二章は「天界の生活 仕事・結婚・住居」と題して。
・天使たちは大小様々な村に分かれて暮らす。彼らは自分が従事する活動をもっている。
・愛、知性、知恵において優れる者が中央にいるという階層構造。似た者同士は引き寄せられる。自由が感じられ、くつろげるからである。
・天使たちの状態は変化し続ける。昼と夜が変わるように、天界からの光の度合いが変わり、それに応じて愛に満ちていたり、影と寒さの中にいて憂鬱に満ちていたり。
・神は天使によって現れ方が異なる。光のようだが、強度が違う。
・住居は霊格によって決まるみたいだ。豪邸もあれば普通の住居もある。居間、寝室、中庭。宮殿も。宮殿では何もかもが輝いている。建築件pの神髄。
・幼くして死んだ者は、天界で教育される。地獄に行く人は、この世での過ごし方によるので、本人の責任らしい。幼児にはない。教育かかりの天使(この世で母性愛からどの幼児も愛していた女性)がいる。幼児は、天使になる初歩段階にいる。
・無邪気さは天界のすべてのものを受け入れる。幼児はみな、神から直接保護されている。
・まずは言葉の教育。幼児の好む愉快なものが使われるようだ。
・感情から発した思考概念こそ、天使が話すあらゆる言葉のもとになっている。
・幼児は言葉を覚えたら、第二ステージに。次は知恵に満ち溢れたイメージによる指導。
・成長した幼児は、成人の大人の姿になる。
・結婚は天界の天使の繁殖の機会でもあり、極めて聖なるものである。姦淫の享楽は地獄の享楽。
・天界における活動とは善行であり、善行とは自らを役立てること。管理機構は神の秩序により、天使たちが運営する。それは多くある。善行そのもので尊敬される。
・異教徒も天界に導かれる。悪い思想や感情から遠ざけるために、受け入れられる限りの善い感情を吹き込む。
・天界で生きるために必要なものは全て無料で与えられる。共産主義なのだ。
・天界では誰もが自分に相応しい仕事に就いている。これも共産主義なのだ。
第三章は「天界の喜び 天使の力・知恵・愛」と題して。
・天使は眼力(めぢから)だけで悪霊を圧刀E一曹ナきる。一瞥で万事を見通す。場合によっては地上でその力を発揮する。(サムエル記下二四・一六~一七)
・真理なければ善に力なし、信仰は真理である。
・天使が人間に話しかけるとき、人間(の霊的思考)と合体し、人間が理解できる手段を用いる。その様子は、人間が自ら思考して話しているかのようである。但しそれは危険なので、余り許されていない。
・人間にとって霊は危険なので、気づいても話しかけてはならない。
・特に狂信者の霊は虚偽を真理だと思い込んでいて、取り憑いた人にその虚偽を信じ込ませる。
・かつて天使と人は結びついていたが、人はこの世を愛するようになり、天使から離れた。
・天使は直接人に働きかけず、代理霊に自分の姿を見せて預言者に言葉を吹き込むようになった。
・天使の「言葉」は、恐らくイメージに属するもの。人語で表現できないものも表現する。
・善霊、悪霊、精霊。人間はこれらの影響から逃れられない。ただ身を律すること。
・死後二日の霊。「感覚も願望も、地上にいたときと同じです」
・賢者キケロ。「生命に関わらない知恵などありません。生命に関わらないものは知恵とは言えません」
・現代ではキリスト教徒よりも異教徒のほうが天界に入り易い。「先のものが後となり、後のものが先となる」(ルカによる福音書一三・二九~三〇)。なぜならば、彼らは純真だからだ。
・天使曰く「キリスト教の教義は、地上の他のどの宗教の教義より愛と慈愛を説いています。しかし、そのとおりに生きている人はほとんどいません」(p130)
・真理や善をどれだけ愛したかで人間は量られる。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカによる福音書六・三八)
・推論能力がいくら優れていても、神への愛、隣人愛がなければ「クラゲ骨なし」である。五感のみが全ての源泉であると考える者を感覚的人間とスウェデンボルグは呼び、古代人は「知識の木のへび」と呼んだ。
・五感に知られる物質世界の記憶は、霊界ではフリーズされる。五感を用いて磨かれた理性だけが意味がある。科学的知識は人間を賢明にするが、それは実践を通じて人の役に立った場合だけである。って、エンゲルスかよ。
・人の精神は土のように耕し方次第で変わる。
・贅沢は素敵だ。そのこと自身は天界に入る/入らないとは関係ない。
・「人間は行為のもとである思考や愛情によって裁かれ、報われる」(p144)
・「貧しい者」とは、善と心理の知識に乏しいために、それらを求めている者。悪人正機説なのだ。
・世捨て人は隣人愛を実践できないので、天界に入ることはない。
・天界の天使は、自分の喜びを他者と分かち合うことに喜びを感じる。神への愛はみなの幸せを願うことであり、分かち合う愛。共産主義じゃねえか。
・天使は自分を愛する以上に隣人を愛する。地上と違い、自らの身体を気遣う必要がないためである。肉の束縛がないためである。
・霊の持つ善や慈愛が外面化される。天界では年を経ると若返る。
第四章は「地獄で暮らす悪霊たち 自己愛に生きた者の末路」と題して。
・例えば権力者だった霊。神について言及すると憎悪をむき出しにし、悪魔と化した。
・高い地位にあった僧侶も、自分のことしか考えていなかったことが天使に分かり、仕事から追放された。
・世俗愛は自己愛ほど悪くはない。富そのものは悪ではない。富の善悪は何に役立てたいかで量られる。
・「地獄の火」は自己愛や世俗愛から悪事をなそうとする欲念のことである。地獄ではそのような猛火が燃え盛る。(但し、天界から熱が入ると、地獄の熱は寒さに変わる。地獄での反乱が異常に増えると、そのようなことが起こる)。
・支配する快感は、(現代の表現で言えば)サディズムと結びついている。
・同じ欲念を持つ霊がその霊気を感じると快感でみたされ、その方向に進むために、地獄に相応しい霊は地獄に進む。
・地獄の奥底ほど悪辣な霊がいる。嫌がらせ、虐待、奴隷。だが、常に反乱があるので、常に下克上。
・天使が知恵と知性を持つがごとく、地獄霊は悪意と狡猾さを持つ。肉の束縛がなくなったがゆえに、それらはむき出しになる。
・最悪の悪霊は、自己愛から悪に浸り、故意に詐欺を働く霊である。霊魔と呼ぶ。霊魔は思考ではなく感情に訴えかけて人間に流れ込む。
・神は悪霊から人間を引き離そうとする。神を否定する人に対しても。そのために、法や揩l間に作らせたのかな。
・霊界の外観は、この世と変わらない。この世からあの世に行っても、人間は霊界入りしたことがなかなか理解できない。天界は精霊界(入口)からは見えない。天使たちは より内的な状態にあるため、精霊の視力ではとらえられないためである。
・地獄にも天界と同じく、無数の村がある。それぞれの悪に応じて、極めて秩序だって整理区分されている。
・人間は神から自由を与えられている。それは人間が「悔い改める」ためである。人間は善く考えることも、悪く考えることも、誠実に考えることも、不誠実に考えることもできる。
・善から悪は見えるが、悪から善は見えない。行為への欲(意志)がなくては、人の行為は身につかない。思考は記憶から生じるが、意志は生命そのものから生じる。
・スウェデンボルグの自由に関する考えは『天界の秘儀』にある。
というわけで、近代における唯物弁証法、共産主義は神の御心に適っていると言わざるを得ないのであった。