第200回_松下幸之助の凄さ(第1話) | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第200回_松下幸之助の凄さ(第1話)

昔日本に三井、三菱財閥に肩を並べるほどの企業群をたった一代で築き上げた怪物経営者が二人いた。スケールの大きさで彼らに敵う者は恐らくいないであろう。彼らとは日産、日立グループ(日産コンツェルン)の創業者、鮎川義介(あゆかわよしすけ)と神戸の総合商社鈴木商店の大番頭、金子直吉(かねこなおきち)の二人である。



鈴木商店は昭和2年の昭和恐慌のあおりを受けて倒産しているので、今、その名を知っている人はほとんどいないと思うが、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等は元々鈴木商店の関連する会社であり、全て金子が種を蒔き手掛けた事業である。戦前の一時であるが、日産コンツェルンも鈴木商店も売り上げ規模で三井、三菱を抜いたことがあった。



鮎川も金子も一代でこれだけの企業群を築いたことは紛れもない事実であるが、何もないところからスタートしたかといえば必ずしもそうではない。鮎川は大叔父に明治の元勲井上馨(いのうえかおる)を持ち、「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ、東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学した。一番初めに手掛けた事業が日立金属の前身となる戸畑鋳物(とばたいもの)の設立であったが、井上に資金的な面でも工面してもらっている。鮎川は創業者ではあるが血縁的には非常に恵まれていた。



金子は鈴木商店に丁稚奉公で入り、初代店主が没すると大番頭に抜擢され、鈴木商店を三井、三菱に並ぶ巨大企業グループへと発展させた。鮎川のように学歴や強力な血縁はなかったが、鈴木商店は既に神戸では地盤のある商店であったので、何もないところからのスタートではない。



では学歴も強力な血縁もなく文字通りゼロからのスタートで最も大きな企業を興した経営者は誰かといえば、やはり松下幸之助であろう。



幸之助は父親が米相場に手を出して失敗し、破産したため尋常小学校を4年で中退し9歳で丁稚奉公に出されることになった。20歳で、お見合いで結婚(妻むめの)し、大正622歳の時に勤めていた大阪電燈(現関西電力)を退職して独立した。この時には両親は既に亡くなっており、8人もいた兄姉のうち6人もが次々と病気を患い亡くしていた。幸之助にはもちろん田畑や土地など財産と名のつくものは皆無であった。



ソケットの製造販売をするために僅かな貯金で独立したのだが、工場などつくれるはずがない。夫婦二人で住んでいた借家の2畳と4畳半を、半分落として土間として工場へと変身させた。夜休むスペースも1畳しかない有り様であった。この状況を見て、後に世界の総合電気メーカーになるとは誰が想像できるであろうか。



学歴も血縁も財産も何もない文字通りゼロからのスタートである。幸之助が今もって人気があるのは正真正銘何もないところからスタートしたからではないかと思う。



では何故、幸之助は一代で世界的な大企業を創りあげることができたのか。私なりに次回3つの理由をあげてみたい。



今回、松下幸之助を書こうと思ったのには理由がある。幸之助が設立した松下政経塾から総理大臣が輩出されたことがあり、ちょっとした幸之助ブームが起こりそうな気配である。早速、今日からNHKで夜9時から3回にわたり幸之助の妻、松下むめのを描いた物語「神様の女房」(著者:高橋誠之助)を原作にしたドラマが始まるようだ。



今までも幸之助に関する本や情報は山ほど出ている。これ以上情報が増えても収捨がつかなくなりそうだ。そこで自分なりに、何もないところからスタートした松下電器(現パナソニック)が何故、世界的な大企業になれたのか?という視点で整理したいと思った。

(次回も宜しくお願いします(●^o^●))



2話に続く



関連サイト

松下むめの(幸之助の妻)語録

http://bit.ly/plCfI1



松下幸之助(語録政治編)

http://bit.ly/oL2axG



松下幸之助語録集(逆境編5

http://bit.ly/oO0kre



井植歳男(三洋電機創業者)語録

http://bit.ly/qPe1qb



三洋電機誕生秘話

http://amba.to/jy3WnZ



文責 田宮 卓