第196回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第7 話(大災害から立ち上がった男達No27 ) | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第196回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第7 話(大災害から立ち上がった男達No27 )

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新平が東京市長を辞任して5ヶ月後に関東大震災が起こるが、その直前、山本権兵衛首相は組閣に難航していた。新平を内務大臣として入閣させたいが、新平は入閣の意義は、日露の国交回復実現にあるので外務大臣でなければ入閣を拒否する構えだった。そんな時に関東大震災が起きた。


1923年(大正12年)91日午前1158分のことである。新平は麻布の自宅にいて大勢の関係者や新聞記者に囲まれていた。「これは大きいぞ」皆の足が浮足立った。時間が経つにつれ「大きいぞ」どころの話ではないことが徐々に分かってきた。東京や横浜に火の手が上がり夜を徹して燃え上がった。この惨状を目の当たりにし「外務大臣だろうが内務大臣であろうが入閣するほかない」と新平の考えは変わり「無条件で入閣する」と山本首相に告げ、内務大臣で入閣した。


内務大臣として入閣した新平は直ぐに帝都復興の指揮をとることになった。関東大震災による東京の焼失は当時、世界最大であった。有名なロンドン大火、サンフランシスコと比較しても最大の都市大火である。その復興を僅か6年半でやり遂げたのだが、阪神・淡路大震災の復興事業はこれより小さい面積であったのに10年かかかったことを考えると6年半がいかに早いかがお分かりいただけるだろう。これだけ早い復興は後藤新平がいなければ出来なかったといわれる。


新平は96日の閣議で早くも「帝都復興の議」を提出。帝都復興院総裁も兼務し、東京を、これを機会に欧米に負けない都市に復興させようと走り出す。


しかし新平は当初の復興予算を30億円と考えていたが、帝国議会でそんな予算はないと賛意が得られず、4億円代まで削減されてしまった。復興計画はかなり骨抜きにされたが、それでもかなりの成果があった。では東京は復興計画でどう変わったのか、具体的に大きく4つのことが変わったといえる。


1、交通網が発達

2、防災面が強化

3、環境衛生が向上

4、美観都市になった


まず復興事業の大きな成果は、道幅は狭められたが、幹線道路や補線道路を徹底的につくったことである。焼失地の人達に区画整理の必要性を説明、説得し理解を得られたことで、次々と道路がつくられた。昭和通り、日比谷通り、晴海通り、三ツ目通り、蔵前通り、浅草通り、国際通り、永代通りなどが復興事業で出来たものであるが、道路幅は予算をカットされたため大幅に縮小させられた。例えば昭和通りは当初の計画は72 mであったが実際は44mにつくられた。他の道路も道幅を縮小することを余議なくされた。これは今考えると、都心の幹線道路を用地買収して拡げるのは不可能なことであるので計画通りいかなかったことは残念である。


また表通りだけ整備しても意味はなく、幹線道路の裏の道路もつくり直した。当時の東京は水道も排水溝も満足にない劣悪な貸家や長屋が多かった。徹底的に裏道路と同時に上水道、下水道も整備したので環境衛生が悪い長屋は一つもなくなり、東京の衛生状態は飛躍的に改善された。これだけでも大きな成果である。


そして墨田公園、錦糸公園、浜松公園はじめ全部で52もの大公園、小公園をつくった。これらの公園もやはり予算カットにより縮小させられた。今の墨田公園も当初の計画の3分の1の大きさである。


道路や公園をつくったのは防災の役割も考えてのことであった。焼けたところと焼けなかったところの境をみると道路や公園が延焼を防いでいることがみてとれたからだ。公園は「平時においては行楽の地となり、非常の時には避難所とする」ことを目的とした。今もって東京に緑の公園が多いのはこのためである。


また、関東大震災当時は耐震橋梁が一つもなかった。木造の橋は全て焼け落ちて川べりで多くの人が亡くなった。その教訓から徹底的に耐震構造の橋を架けた。墨田川の相生、永代、清州、蔵前をはじめ全部で400以上の橋が架けられた。道路をつくり、橋を架けることで東京の交通網と防災機能は飛躍的に発達した。


復興事業が完成した時、東京は緑豊かな美しい都市に生まれ変わっていた。しかし戦後はこの道路や公園の緑地を潰し運河を埋めて高速道路を建設し景観を損ねてしまったのは残念なことである。今の昭和通りは都市の道路としてはとても醜い姿になっているが、完成当時は緑豊かな、きれいな並木道があった。


新平の帝都復興計画は縮小されたもののかなりの成果があったといえようが、そのまま計画が実効されていたらと嘆く人は少なくない。そのうちのお一人が昭和天皇である。昭和58年の記者会見で陛下は「後藤新平の計画通りなら戦災(東京大空襲)の被害も非常に軽かったと思うと残念でなりません」という趣旨のことを述べられた。


新平が帝都復興計画を迅速に立て進められたのは東京市長時代には実現出来なかった「8億円計画」という下地があったからに他ならない。


また、関東大震災時の東京市長が、新平が市長の時に腹心の助役であった永田秀治郎(ながたひでじろう)であったことも大きい。国と東京市がスムーズに連携がとれたのもこのためであった。内務省と東京市の復興事業の事務所も一緒にし、所長も同じ人にしている。各部署には新平の信頼のおける人物を置き復興事業を進めることができたが、これも新平が今まで優秀な部下との信頼関係を築いていたからである。


311日の東日本大震災で最も不幸であったのは天災と人災の両方が重なったことだと思う。原発以外にも人災がある。関東大震災の時のような斬新な復興計画が国からも地方からも出てこないことである。またそれを実行できるリーダーがいない。これは人災である。


二度とこのような人災を招かないために政府や政治家は未来に起こる天災に今から備えなければならない。また国民一人一人も備える必要があると思う。後藤新平が残した最大の遺産は東京の道路や公園よりもこの教訓ではないかと思う。


最後に、ビスマルクの名言をもう一度紹介して終わりたい。


「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

ビスマルク(ドイツ帝国初代帝国宰相)


後藤新平全7話(完)


文責 田宮 卓