第156回_鮎川義介_恵まれた環境でも等身大で生きる凄い男 | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第156回_鮎川義介_恵まれた環境でも等身大で生きる凄い男

経営者でも、政治家でも2代目、3代目になると初代の苦労を知らず、恵まれた環境で育つようになるので、どうしても考えが甘くなり何よりも精神力が脆くなってしまう人が多い。恵まれた環境の中でさらに努力すれば、初代や2代目よりもさらに発展することができるはずなのだが、なかなかそういう人物は出てこない。恵まれていると逆にハングリー精神を持てないのであろう。


しかし明治時代には、恵まれた環境の中でも誰よりも努力し勉強をして肩を並べる人がいないぐらいのとんでもない大物になった人物がいた。


1880年(明治13年)、山口県の士族の長男として生まれた男は母親が維新の元勲井上馨(いのうえかおる、三井財閥顧問)侯の姪という何とも恵まれた家系であった。この男は大叔父の井上馨から「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ山口高校を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学した。1903年(明治36年)、4番という優秀な成績で卒業して彼が就職先に選んだのは、現在の東芝の前身の芝浦製作所であるが、何と一介の見習い職工として雇われたのである。東京帝国大学の工学科卒は現在の博士号より遥かに権威があり、ましてや親戚のコネを使えば財閥系でもどんな企業にも入れたろうに。それも帝国大学工学科卒を隠しての職工としての入社であった。


一職工になった理由をこの男は「いずれは自分で経営をしたい。そのためには現場を知りたいので、一から出発したほうが良い」と考えたというのだ。

 

この男は職工をやりながら休日になると弁当を持って、東京周辺の工場を見学して歩いた。当時の技術水準、企業経営、工場管理のことを徹底的に研究して廻った。約2年間、工場の実態を見学し、調査を続けて得られた結論は「日本の機械技術は欧米からの輸入で、殆ど独自のものはない。だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない」ということであった。そして彼は思うだけでなく実行に移しアメリカに渡る。実地に新しい技術を学ぶためである。


しかしこの男はここでもコネは使わない。井上の顔を利用すれば政府出先機関や三井関係事業所もあり、容易に留学ができたはずなのだが、鋳物(いもの)工場の見習工になるため、バッフォロー市郊外の可鍛鋳鉄(かたんちゅうてつ)製造会社のグルド・カプラー社に週休5ドルの見習工になる。そこで現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのである。大変な重労働である。火傷をすることも一度や二度ではなかったであろう。この男は「日本人として根を上げたらみっともない」と思い頑張ったという。そこで約2年間職工生活をして当時の最新鋳物技術であった可鍛鋳鉄を習得して帰国する。

そして1910年(明治43年)、北九州の戸畑(とばた)に日本初の可鍛鋳鉄会社、戸畑鋳物(とばたいもの)を設立する。この会社が現在の日立金属の前身となる会社である。この男の名は鮎川義介(あゆかわよしすけ)といい、戸畑鋳物を皮切りに次々と会社を設立し日産コンツェルンと呼ばれる大財閥を築き上げる。今日の日立、日産グループの土台を一代でつくりあげたのだから恐れ入る。

 

文責 田宮 卓




参孝文献



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小島直記 「鮎川義介伝」 ケイエイ

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