前回「 現代人の思想・発想で太古の人々の思考をバカにする愚かさ 」 を平然とやってのけた伊藤浩士・伊藤浩睦。今回はどうであろう。
平安中期以降になると、人間は死ねば、極楽浄土か地獄のどちらかへ行くということが人々の常識になってきます。極楽のようないいところに行かなくても、地獄のような酷いところにいかなくても、ほどほどにふつうに暮らせるところでお願いします、という選択も、人間は死ねば終りでありあとは何もないのだから、死後のことなど気にする必要はない、という考え方もできないのです。早速バカ発言が始動。無闇に近世でやっと認知を得はじめた「しんだらそれで終わり」の発想を太古の人間に向けて押し付けバカにするバカの構図を展開。(呆れ笑)
これは人にとっては随分と辛いことです。地獄絵図を見せられると、死んだあとあのような場所で責め苦にあうのは嫌だと誰もが思います。しかし中間はなくて、地獄へ行くのが嫌であれば、なんとしてでも極楽へ行くことを目指して、現世を生きなくてはなりません。次第に、どうやったら死んだ後に地獄へ行かなくて済むのか、それが人が生きる重要な主題になっていきます。
これは僧にとっては思う壺の状態です。仏教の力で、厄災を防いで国家を安泰にしますといってもできることではないし、腹の子どもを男子にしてくれとか、自分を出世させてくれとか言われても、これまたできることではありません。極楽浄土へ行かせてあげるであれば、結果が確認できないのですから、ボロが出ることなく加持祈祷が行えます。
極楽へ行かせる加持祈祷をやってもらったが、その効果がなかったどうしてくれる、といった苦情は絶対に来ません。僧にしてみたら、そこで最も安全な営業が成立するのです。残念ながら釈迦自身が生きている頃にすでに巫覡卜占の禁止を信者に言っている。未来予測をはずす事は信用問題。 宗教にそれはあってはならない事。釈迦は未来予測を生業とする危険をとうの昔に認識していた。 だから誰もいけない極楽の加持祈祷であり、祈りの力が事の成就か失敗に分かれると前置きするのだ。弥勒菩薩は誰も知ることが出来ない56億7千万年後にくるのだ。
それがオカルトでありソレが宗教であることが一つも分かっていない。そして今を生きる人間の魂を救済するのが宗教の役目であり、その魂が救済されるのなら「途中の嘘など途中の方便・詭弁などはどうでもいい。」と言うことが一つも分かっていない。 宗教は懊悩する心を救済する装置であり、方法論だ。 太古も今も宗教はその側面が大いなる一部であり、宗教は悩める魂・心を救済さえできれば9割9分は成功したといっても過言ではない。
平安中期以降、京都に次々と大きな寺が建てられます。今は平等院と蓮華王院しか残っていませんが、天皇家や摂関家によって幾つもの寺が建てられるのですが、その建立目的は国家安泰でも王城鎮護でもなくて、その寺を建てた人が極楽浄土へ行くためのものでした。
目的が変わると崇める仏も変わってきます。奈良の大仏は盧舎那仏でした。盧舎那仏は宇宙の中心となる仏であり華厳経で用いられた音訳です。大日経や金剛頂経では大日如来と言われますが、同じものとされています。宇宙の中心ですから最も位が高い仏ですから、それを礼拝の対象とするのは自然なことです。
ところが極楽浄土に行きたいとなると、阿弥陀如来に人たちは注目するようになります。阿弥陀如来は、無量寿、無量光とも漢訳されていますが、宇宙の中心にいる仏ではなくて、衆生を救済する仏であり、具体的には人が死ぬときに迎えに来る仏でした。盧舎那仏も釈迦如来も教えの役目が違い、同じ如来の化身した姿でもあり、兄弟弟子とも言われる。そして阿弥陀如来がすべての如来の帰結する姿でもあり、全ての如来の大本とも言われてることも知らないようだ。
仏教は多神教なのですが、多神教などという見識は、考えの浅い伊藤くらいなもの。どう考えても、宇宙の中心にいる盧舎那仏に比べると、死者のお迎えは使い走りの感じがして、あまり偉い仏とは思えないのですが、極楽往生が仏教信仰の目的となると、死んだ時に迎えに来てくれる仏の方が個人的には重要になってきます。仏教を単なる多神教と捉えるのは子供の興じる囲碁と一緒。全てのものに神の性が宿り、そぞれの神性が何がしかの特徴を備えて、人間に対して時には寄り添い、時には対峙して人間に何がしかの意味を問うてくる。それがなにを意味するのか?と考える多神教から一歩進んだ汎神論と捉える識者もいる。それは囲碁で例えるなら実際の戦略の知恵や直感を養う知恵の道具としての囲碁となる。さらに、汎神論を押し進めてそれぞれの神の指し示す意味をもって、ならば仏教は人は・国はどう生きるか?国はどうあるべきか?を問うている哲学である。と考える識者もいる。(実際、仏教の信者は仏の偶像を盲目的に崇めることはせずに、僧は生き方を信者に常に問いかける。)これは囲碁で言えば囲碁から世界の治世を考える域ともいえる。 残念ながら伊藤の仏教に対する見識は子供の遊びの囲碁と一緒。 浅いことこの上なし。といえる
藤原道長は、いよいよ死ぬというときに、自分が作った法成寺の九体の阿弥陀如来の手に五色の糸結び、その端をを自分の手に結ばせたと伝わっています。そうまでして極楽浄土へ行きたかったというか、権力を得るためにいろいろと悪謀も巡らしてきたので、地獄へ行くことがもの凄く怖かったのでしょう。 伊藤は通報されたり、素性を明かされることを死ぬほど怖がっているが。
道長の息子の頼通から平等院を作って鳳凰堂に阿弥陀如来像を安置したのも同じことであり、当時の権力者の、なにがなんでも地獄には行きたくないといった気持ちであり、仏教を信じる目的はそこへ集約されていく状態になっていました。
総評
太古の発想・思考法を現代になってようやく獲得した思考法でバカにするというのが伊藤の思考法。 そのような思考法では1000年たっても1億年たっても昔の考え方を理解するのは不可能。 多少の知識人は時代における思考法に立って当時はどのように人は考え方をしたのか?・・の思索に立ちとうの昔にソレを実践しているが、 伊藤のバカはその位置にすら立っていない。 だから見識がバカで浅くて偏り、知識人気取りのクセに全然のアホ扱いをされいるのかサッパリわかっていないのはココまで見れば明らかであろう。