私は1945年(昭和20年)10月10日生まれの現在69歳をまじかに した1元教諭ですが太平洋戦争が終結した8月15日からわずかして生まれ た人間です。

私たちの世代は「変革の時代」とみずら思っています。

ものご ころついたときには、物不足で米は「配給米」でそれを食べつくすと主食と言えるのは「さつまいも」「じゃがいも」ということで当時白米のことを「銀シャリ」と呼んでいました。ハングリーな時代を過ごしました。

小学校の給食は「太くて長いコッペパンと脱脂粉乳」コッペパンを脱脂粉乳に浸けつつ食べていました。「無から有の時代」でもありました。

自動車はほとんど走っていなくてダットサンという3輪車がときどき走って いるくらい、あとは牛車か馬車でした。

奨は30年代に入ると高度成長期の時代に入り「東京オリンピック」「新幹線が開通」、「臨・徹・残」を聞くようになっていました。臨時出勤・徹夜・残業のことです。

働けば働く程収入があり世間は好景気に湧いていました。その間仕事オンリーで子供の教育は特に心の教育を忘れた時代でもありました。

これが、後々後悔する時代が・つけが回ってくと言う余裕の無い時代でもありました。

3つ子の魂 100までと言われるように。善悪の区別のできない大人を生む結果になろ うとは、誰も思ってはいませんでした。

話が前後しますが当時「3種の神器」と言われ「電気洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫」が世に出てテレビも東京オリンピックをカラーで見ましょうがきかれ。SONYの「トリニトロン」を私は高額でしたが買い求めました。

ラジオBOX・電気蓄音機・白黒テレビ、はたまた、たらいと洗濯板から電気洗濯機へ、木製の箱の中に氷をいれての冷蔵庫から電機冷蔵庫、ほうきから電気掃除機、うちわから扇風機・エヤコンとうちわのことを手動扇風機と言っていました。

めまぐるしい物の充実、それとは裏腹に「心の教育」をなおざりにしてきた感があります。

義務教育の「義務化」は成功したと感じていますが。その中での教育内容「物事を筋道を立てて考えるような教育ではない・いわゆる知識の切り売りに専念 した教育」であったように感じてます。

例えば「英語の教育」は日常会話に重点にしたものでなかった。単に受験に備える教育であったように思います。

 

心の教育
叱るべき時に叱らない親が増えていて「三つ子の魂百までも」と言われますが小学校に入学するまでの五・六年の間に善悪の区別がつくよう親が教え育てていかないから区別がつかないまま自我が目覚めた状況にある子供が増えています。

親はテレビなどで子供に殺されている報道を常日頃見聞きして叱れない。
叱ると将来報道のようになるのを恐れているような気がしてならない。
それは全く反対で小さい時に叱って善悪の区別をはっきりたたき込んでおけば悪いことだと知っていれば決してそのような行動を起こさない。
人を殺しても反省どころか「人を殺す経験をしてみたかった」「人生を早く終わらせたかったから人を殺した」とかの動機をいう人間までもが出現してしまうのである。

尚、次のyoutubeの私の「人生の意味すること」の動画を見てください。特に「若人に」2013年06月16日の動画

人生の意味することhttp://www.youtube.com/watch?v=URfaGbfIacs&feature=youtu.be

 

校内暴力を振り返って

教員になって12年「校内暴力」が全国化した。
この時の教訓からか「体罰の禁止」となり、
生徒にとっては怖い先生はいなくなり、以前は怖い先生の言うことはよく聞き、怖くない先生はなめていました。
さらに「言葉の暴力」も許されなくなりどっちが先生で生徒か判らないという様でした。
テレビでも体罰を加えたことによる懲戒免職になった先生が報道されています。
こちらが体罰と思わないことでも相手が体罰と感ずれば体罰となる。
これらが発展し授業離脱・学級崩壊へと進み、さらに不登校・登校拒否へと発展、学校への魅力が乏しくなり、親は戸惑っています。
さらに勝手気まま「いじめ」「いじめによる自殺」が増えています。
教育の見直しの時期が来ている。


自然環境
自然の中に暮らす動物、人間も例外ではない。ところが文明の発達により 自然環境の破壊を余儀なくされている。
温暖化が進んでいる今、人間は自然を失いつつある。
私が子供の頃は自動車は走っているのが珍しく、馬車や牛車であった。
家の周りは田んぼや畑が広がり、例をあげればきりの無いほどの昆虫や 魚が身の回りに生きずいていました。
また、たまたま中規模の川が近くにあり、泳いだり、魚を捕まえたりしていた。
具体的に上げれば田んぼには「タニシ」「イナゴ」が畦道に、夏になれば「蛍」が、川では水がすきとおり、下は砂地で、その砂を両手ですくえば大きな「シジミ」、カラス貝が豊富にいましたし、アユ・ウナギ・鯉・フナ・ナマズ・メダカ・桜エビ・モクジガニ・ボラ・ヒル・ミズスマシ・ミズカミキリ・ゲンゴロウ・アメンボ、昆虫ではセミ(アブラゼミ・ニイニイゼミ・ミンミンゼミ・ヒグラシ・クマゼミ・ツクツクボウシなど)、トンボでは(シオカラトンボ・ムギワラトンボ・アカトンボ・オハグロトンボ・イトトンボなど)、 チョウチョでは(アゲハチョウ・モンシロチョウなど)カゲロウ・カブトムシ・クワガタなどなど、今は家屋がひしめき合い生態系が狂っている。
道は舗装され自動車の通行が激しくCO2をばらまいている。
土の感触も味わえない。泥まみれになってのびのびと遊ぶ場所も失われている。このような環境の中では情緒が育たない。
理科を教えている中で特に「生物分野」を教えるのには苦労しました。
トンボその他の昆虫だけでも博物館で見たとか言い出す。
家の中にいるほうが安全とばかり「ゲーム」にはげむ、公園に子供を行かせるのも安心できない。

 

義務教育について
戦後始まった義務教育制度について
親がわが子に教育を受けさせる義務という点では成功した。
ただその「教育の内容」がワード的・知識の詰め込みであったことは不満である。例えば英語教育について言えば「文法主義的」で読んだり書いたりの内容で実用的な「日常会話」はなおざりにされてきて大学までそれを通してきた。
私たちの年代「団塊の世代」の前後の人間は外国人が話しかけてきても何を言っているのかわからない。
従って何を答えていいのかも解らない。肝心な日常の生活での「英会話」ができない。
何年前からか「TT(テームティーチング)」ということで外国人講師付きの授業が行われるようになった。
戦後の教育は「入試」を重視して行って来た結果である。
「入試制度」の改善策が遅れワード的・知識を問うことに重点にせざるおけない実態から抜け出せなかった。
入試の改善策が思うように進まず「受験戦争」とまで言われるようになった。
脱皮して理詰め方式の内容に変えれば(1つ1つの設問を例えばこの場合にはどうしたらいいでしょうか「設問」で最適なのを選ばせることで内容を理解しているかを図るものに変えれば「普段の授業」もワード的知識の切り売りに徹しなくても済むんではないか。文科省も「中教審」「臨教審」の答申を受けて、「学習指導要領」にのっとって行われてきたが現場の実態を把握が、会に「現場の教師」を少しでも多く入れることをさけてきた結果、より良く反映されず、入試制度も改善が思うように進まなかったのではないかと思う。
知識を身に着けるのも非常に大切だが、それ以前に「物事に対する正しい考え方、筋道が解る人間」の育成に力を注ぎ、楽しく「わかる授業」を展開し 「教科書教える授業」ではなく「興味とやる気」を育てれば、自分から知識を覚えようとする姿勢に変わると思います。

 

性教育について
理科の中で生殖を教えますが人間については保健体育で行っていて、理科では花から入ります。
性教育は体位の向上の観点から小学校の時期からモラル理性を強調し真の異性との接し方を教えておかないとセーブが効かない間違った性行動に出てしまいがちで子孫を残す為にあることを根づかせておかないと興味本位になりがちです。
まずい結果が起きてからでは手遅れなので目的を間違わないように教え込んでおくことが大人の責任、親としての責任だと考えて欲しいものです

人生観の教育
人生とは、人とは、正しい人生観の育て方

人間は、生物界とりわけ動物界では霊長類と言われ、別格の生物である。
「脳は」「心」を持ち合わせ日々進化し続けている。
それ故脳は使えば使うほど良く、ろくに使わないと退化していく。
自分の脳とりわけ人生観は自分で作らなければならない。
「人生」と一口で言ってもまた、良い人生と言っても、いわゆる「薔薇色の人生」という言葉があるが、それが一概に「幸わせ」に直結するものでもない。
「灰色の人生」でも「心豊かに」感じている人もいるかも知れない。もともと人生は「競争」でも「比較するもの」でもないでもない。
人は「うらやましい」とか「自分は惨めだ」と思い比べるべきものでもない。
人生観は「自分で切り開いていく中で感ずる」もので人それぞれの「生き方」がある。
悲観したり、絶望したりしてはならない。
人それぞれ「運命」を持って生きている。
私は無神論者です。
正しい生き方を親は身を以て子供に示してこそ親であり「子は親の背を見て育つ」と言うが「小さい時及び多感な時期」は特に言えるのではないか。
いい人生とは何か、人とは何かと、ふと考えることは長い人生の中では必ず訪れる。
要は「人」は字のごとく一人では人という字にはならない。
一人では生きてゆけない。
他の人に出来うる限り迷惑をかけず「終わりよければすべて良し」で 自己満足で終わればどんな道を歩もうが「良き人生」はないのか?

 

理科教育~温暖化について
歴史的なことになってしまいますが、エネルギーとりわけ電気エネルギー、電力の供給に対して「水力発電・火力発電」だけでは賄いきれない程の「電気製品をつかう」時代は「便利で楽な生活」をしているのは認めますが、そのために「少量で膨大な熱を出す核燃料」に「核開発」に世界が注目し手を伸ばした選択は今、結果論的にいえば「まずかった」と言わざるおえないと思う。
その当時、それしか有効な手立ては見えていなかったからやむおえないが、自動車の燃料についても「ガソリンつまり原油」に求めたのも結果論的にはまずかったと思う、ただその当時は「思いつかなかった」といえばそれまでのこととなりますが、他の「地球にやさしい」方法がすすんでいなかったのは残念としかいいようがない。例えば「太陽の膨大な光と熱」「充電電池」の方法が進んでいて「実用化」しつつあれば良かったなと、ぐちになりますが、そう思います。他に「マグマによる地熱発電」「風力、波浪による発電」最近出てきた「電波を電気に変える方法」などこれらを研究しているようなので「代替エネルギー」として「実用化」に向けてやっていくしかないのかな、と思っています。
温暖化によると思われる現象が今日出てしまっているようです。熱を吸収しやすいCO2の大気中に含まれる量が増加しているためだと思いますが、私のあくまでも推測ですがこの関係で南極大陸の氷山、北極海の氷が溶け出しているのではないか、タイの浸水、海水面の上昇、無人島の水没、他に「砂漠の拡大砂漠化」「オゾン層のホール・破壊」「酸性雨によるとみられる森林の木の枯れ・ジャングルの露出」などどれをとっても大きな問題、こうゆう現実を正しく認識させる教育を施していかなければ「歯止めを見出さないまま進んで行ってしまう」気がしてならない。

 

宇宙の誕生から生命(生物)の存在まで
教育にからんで「生命の大切さ」を教えるうえで重要な宇宙の誕生から生命(生物)の存在までをとりあげてみよう!!
宇宙の誕生については、私の見解では「無限の宇宙空間の存在」から始まる「無から有」の科学的にはありえないことが起こったとしか考えられないし、認めざるおえない。また、星雲を柱とし銀河系宇宙、恒星(太陽を含む)や太陽系の誕生も同様だ。
小さな宇宙塵が衝突を繰り返し、地球や他の惑星、月のような地球の周りを自転しながら回っている惑星の仲間、小惑星の誕生も宇宙塵が「無から有」ということを認めざるおえない。
地球が誕生したのは45億年以上前と推測されているが、誕生のいきさつも推測にすぎないが、太陽から分れ、冷えていったとも言われるし当時火山活動の激しい中、水蒸気が冷えつつ大気と水のおかげで、硫酸の海であったものの、ラン藻類の仲間やサンゴのようなものが、炭素・水素に酸素をつくりだし「化学反応」と私は考えているが1つの生命体のもととなる「細胞が」先に誕生、その「1細胞が分裂を繰り返して」魚類、両生類、爬虫類へと進化をしながら海(原始大洋)から陸上へと上がって「最後に哺乳類」が現れどうゆうわけか雄雌に分け人間では「男女に」、その頂点に「霊長類」と言われる「人類(ホノサピエンス)」が登場し「クロマニヨン」などの「人間の直接な祖先」へと進化し、原始生活しているうち「火・道具・言語」を使用を始め、メソポタミヤ文明を含め四大文明が誕生しつつ、身体の進化とともに「脳の進化」をとげ、現代に至っているが、「身体の進化は終わっているが、脳の進化(知恵)は未だに留まることなく進んで進化をし続けています。」というのが私なりの解釈となっている。 [#gac88ee0]
その進化の様子を母になる人の子宮の中の羊水の中で「魚類から哺乳類なるまでの過程を見せてくれている。
「個体発生は系統発生を繰り返す」をしながら今日まで来ている。

 

PTA
学校と地域をつなぐ大切な「パイプ役」としての重要なPTAの活動は「車の両輪を動かす」の原動力のような役を担っている。と思います。生徒は地域と学校間を日頃行き来して、その中にあって成長して行きます。
地域が活発になれば、自ずと学校も生きづいてきます。生徒の背景が良くなれば生徒も良くなると思います。
家庭は地域に根ざしたものです。昨今、地域と家庭の結びつきが疎遠となる中、生徒は家庭に閉じこもりがちで地域の中での活動が少なくなっているように感じます。
地域の活動に、より積極的に参加して人間関係を学ぶチャンスをより多く与えてあげることがより重大な時代になって来ていると思う次第です。

 

総括
「教育力」が落ち込むと「国力」が落ち込んで偉い人物が出なくなるし犯罪は増加し「良い国」ではなくなってきます。
他も軽視できませんが、優先順位をつけるなら「教育に金をかける」のを第1位にして欲しい。
「家庭教育と学校教育」
育てる自信のない人は子供を産まない方がいい。子度は「親を選べない」 生まれてくる子供がかわいそう。
「しつけ」は親が、「学問」は学校の領域である。親が我が子を「小学校入学」までに5歳までに「良い・悪い」を最低限「家庭」で行って欲しい。
小学校入学までが勝負である。最近見ていると「我が子がだだをこねていても叱らない親が多くなっている。」まずは親が声を出してわからせる努力をしなければ善悪のつかないまま小学校・中学校と成長して、自我が目覚めた頃に学校に「しつけ」もお願いしますはないでしょ。
「金八先生はドラマであって、あすこまで「家庭に踏み込んだらプライバシーもあったもんじゃない。」

親は昔と違って「我が子が学校で怒られた」と言うと「先生を非難するので」子供も右へならへ。
「良い・悪い」がわからないまま大人になるから「人を殺しても反省すらない」悪いとわかっていれば、親を殺したりしません。先生は「体罰の禁止」が「教育基本法」の一文があるため「先生は暴力をふるえば、懲戒免職になる」また「ことばの暴力」もぼうりょくになる。
また、「区別」と「差別」は違います。
例えば、「数学」でいうとAクラス、Bクラス、Cクラスと能力・習熟度によって学習するのは「区別」であって「差別」でない。保護者もそのことをよく理解してこそ親である。
「一律に中間層を目安に」とやると「上級者はあきるし習熟度低い子は「お経の文句」にきこえつまらないから「教室から離れる」それを「先生方は教室に体裁を整えるべく押し込める」このため「先生は理解してくれないと反発」「押し込める行為も広い見地」にたてば「体罰になる。」
現状に「なれっこ」になっているから「親のしつけも学校がやらざるおえない」と「錯覚」を起こしている。「親がやることは親がやる」「学校は勉強だけおしえて学力を高める」と「発想転換」をこれから「生まれてくる子供に」はそれに徹して「なれれば」必ずできると「自信をもって言えます」どうでしょうか?
人間はこの「地球という舞台」で「運命」に翻弄され「演技」をしている。
「自分という存在は世界で唯一の存在」で2度と死亡すれば現世に現れない。また、命は「お金では買えません」特に人間は「霊長類」に属し「特別他の動物と比べると「頭脳の進化をし続けています」よって「頭脳は使わないと退化し脳細胞が死滅」し「認知症」というような病気を引き起こす。
「人間は犬や猫のようにはお金で買えません」脳は「使えば使うほど活性化します。「脳細胞は1度死滅したら再生がありません」「脳死は死です」
人は死亡すると「昔は土葬していましたが面積をとるので、だびにふされ「物質カルシュウムという骨になり階級もない・何もしないで済む平等な世界に入ります。永久に眠っていればいい、楽な世界へとはいります。」
「生きていくという方が大変です。苦労します。」しかし「苦しいからといって安易に死を選ばなくてもいずれ必ず生あるものは死するので負けてはいけません、芝生のごとく踏まれても踏まれても生きてかなければ価値がありません。

 

価値観の多様化
戦後の道徳教育の中で「生み出された価値観の多様化」
事柄に対する見方、考え方が大きく変わりゆく中で育まれた「価値観」
「結婚」を例にとっても「披露宴」など行わず「入籍」だけで済ませ「新婚旅行」も併せて行かない事例が多い、結婚しない若者が経済の不況続きで増えている。結婚しても「子供をもうけない」という一昔には考えられていなかった形が価値観の変容と共に「常識的」になっています。
学校教育も「価値観」の変容と共に変わって来て「モラル」の面でも「非常識」な部分が「常識化」してきて「利己主義」に走っている。
「合理的な考えが起き始めて考え方の違いで慣習も様変わりして、それが世間に関係なく根づいて「常識化」している「私はそうゆうもんだと考えているからそれでいい。」というのが「通念」として「批判する方がおかしい」という時代となっている。「考えかたの相違」でかたずけられてしまう。
「人生」そのもの「考え・生き方」が根本から「変革の時代」を形成している。「IT関連」を考えても「合理的・利便性」から「携帯電話」を例にとっても「マルチ化」していて「単に電話機能だけでなく多様オプションが入り込んで1つでいろいろなことが出来る」のが当たり前のようになっている。
「価値が高い」ものへと「進歩」している。

 

未来の学校は家

高齢化が進む中「高齢者の施設」に行きたくても、何年も待たされている昨今、私なりに考えるに「学校をこの施設化し、子供は家庭でパソコンにむかって電話とで「teamviewer」のような相互に「パソコン遠隔操作するソフト」があるので「双方向で相手のパソコン画面に入り込み・ネット教材を使い授業ができる」のではと考えている。今の子供は生まれた時から「パソコン」があり、安価で手に入る時代、扱い方は「高齢者よりも優れている」そうなれば、「陰険ないじめ、登校拒否、不登校、ひきこもり」などが減少するかもしれないし、人間関係は「各家庭の近隣で親とともに学ぶ」になり「昔の井戸端会議」が復活するかもしれない。教師の数を増やせば可能かなと考える。「学校行事」だったものは「地域の行事・町内会の行事」の充実化により、とってかえられうるだろう。「家庭の崩壊」を「学級崩壊」と共に立て直せるかもしれない。社会は「家庭の塊」で構成されているのだから可能だろう。そんなことを考えている。

 

生きているとは!!

食べたものが消化され小腸で栄養となって吸収され

一方呼吸で肺から取り入れた酸素が血液の循環で

両者が体全体の細胞まで運ばれ酸素で栄養素が化学反応

で燃焼しそのとき出された熱が体温の素になったり

運動のエネルギーとなり動物は生きている。

よって生きているというのは細胞が呼吸(内部呼吸)

しているということです。

単に食べている、呼吸(外部呼吸)をしているということ

ではない。

いろいろな観点から学校教育を見つめて!!


楽しい学校、友達と仲良く、よく学びよく遊ぶ


38年間の教師人生を振り返って