恋せじと御手洗河にせしみそぎ 神はうけずぞなりにけらしも(古今集・恋一・501)
もう恋はするまいと誓うためにした御手洗川の禊。神様はこの誓いを受け取ってくれなかったらしい。(だってこんなにも恋心は募っていくのだから)
こんにちは、さやかです。
風がすっかり涼しくなりましたね。秋の歌を読むのにふさわしい季節がやってきました。
秋というと何と無く物悲しい気持ちがいたします。
昔の人は秋に飽きを重ねて恋の歌を詠むことも多かったので、ついつい、選ぶ方としても私はもう飽きられてしまったのですね…とか、そんな哀しい歌をピックアップしがちなのですが、今日はもう少し燃え上がるかんじの歌をご紹介します。
歌を見て行きましょう。
恋せじというのは、恋をするに打ち消しの意思が入った言葉です。
打ち消しの意思というのは、○○しないようにしよう!という強い思いを指します。
この人は恋をしたくないのです。
最初から両思いということはあくまで奇跡ですから、恋心が強くなるにしたがって片思いの辛さを思わずにいられません。
その辛さを思うならば、いっそ恋はしない方が楽なのかもしれません。
昔のことですから、身分の違いもあります。この人が素敵だなと思った相手は、おそらく手が届かないような、声もかけられないような身分の高い方なのでしょう。
最初から叶わぬと分かっている辛い恋。
それならばいっそ、恋などせずにおけばいい。
そう神様に願いを伝えるために、京都は加茂の社。現在の下鴨神社にお参りに行きました。
神社へ行くとき、今でも御手水場で手と口を洗ってから境内へと入りますよね。
神社は神様のいらっしゃるご神域ですから、心と体を清めてから入らなければいけません。
因みに今は簡単に手と口だけですが、昔は、全身を水につけて穢れを落としてからでないと参拝できなかったそうです。
下鴨神社の奥には泉があって、そこから清水が流れて御手洗川(みたらしがわ)と名前がついています。
その御手洗川で禊をして、そしてお社で「もうこの想いを捨てます!」と宣誓をしました。
ところが、下の句は続けます。
神はうけずぞなりにけらしも
神さまは受けないままになってしまったらしい。
受けずというのは、もちろん、上の句で禊をして誓いを立てたことに対して言っています。
つまり、もう恋はしません!の宣誓が受理されなかったということです。
けらしは「○○したらしい」と、原因や答えを推理する時に使われます。
神様はどうやら宣誓を受理してくれなかったらしいというんですね。
どうしてそれが分かったのでしょうか。
答えは書いていません。
それでも、想像がつきますよね。
現実が宣誓と反対の状態になってしまっている。
自分の想いが誓いをしたあの時よりも、ずっと大きくなってしまっている。だから、あの時よりもずっとかの人が好きだ。忘れるはずのおもいだったのに。
やはり想いは忘れてしまうことができず、どんどんと、想いは膨らんでしまっている。
そんな、切ない恋の歌です。