最近アクセスが悪くて、思うようにブログが進まない。ちょっと困るね。




 戦国期を代表する人物といえば織田信長。長い日本史を通しても、これほどの覇者はみつからない。

 じゃあ、彼の前後で何が変わったんだろう? ちょっと考えてみました。


 一つは天下布武。武力による統一政権の樹立思想ですね。

 過去の日本での武家政権は、鎌倉幕府にしても、室町幕府にしても、組合のリーダー的な立場で開かれた政権です。これが中世の封建制度。信長が目指したのは、世界史的にいうところの近世絶対王政です。成功していればヨーロッパに先駆けての快挙でした。


 けれどこれは世界的な近代化の流れの中の必然だったようです。信長が現れなくても、時間こそ掛かっても誰かが行っていた可能性が否定出来ません。証拠に豊臣秀吉という、信長でない人物がそれを成し遂げています。


 では、鉄砲の波及はどうでしょうか。一般には、信長が合戦に鉄砲を持ち込み、戦いの様相を変えたかのように言われています。

 当時の種子島式(マラッカ式)火縄銃は、連射機能が無く装填に時間が掛かるという欠点があるため、集団戦へと移行していた戦国期の合戦には単独での使用では効果が期待出来ずにいました。信長はその欠点を、鉄砲を大量投入することで克服し多大な戦果をあげた、と歴史は示しています。


 ですが量の話しをすれば、長篠の戦いの時に武田軍にも二百人からの鉄砲隊が存在し、ましてそれ以前に紀州の雑賀衆や根来寺は、千丁からなる鉄砲を駆使して、当の信長を石山本願寺で散々に悩ませています。これは史書として残る文献の偏りが原因でしょう。

 鉄砲の話しは彼の発案という訳にはいきそうにありません。


 常備軍の編成はかなり有望な一考です。

 農業と兵役が分離していなかった当時に、給料制で兵士を常備しておくシステムは画期的です。農閑期でなければ大軍を動かせなかった旧戦国大名に対し、信長の常備軍は年間を通して戦いに赴けます。このシステムで名を上げてきたのが、豊臣秀吉、滝川一益、明智光秀といった面々です。

 このお話しは堺屋太一氏の「豊臣秀長」が大変わかりやすく描かれているので、一読をお勧めします。


 こういった織田信長の所業の中、一つ思い当たったのが、宗教集団との戦いです。

 特に浄土真宗本願寺派、俗に一向宗と呼ばれる宗教集団は、信長にとって最大の敵になっていました。




かをるんのブログ-一向宗



 石山本願寺での城塞戦は十年にも及び、長島の一揆は織田家一族の七人が討ち死にするという激戦でした。戦闘は織田家所領のほとんどで繰り返されていて、所領の真ん中に位置する近江国南部であっても、信長の女婿である日野の蒲生氏郷が一揆に手を焼いていたとあります。


 それを追い討つ信長の執念も凄まじく、長島では二万の一揆勢を焼き討ちにし、越前や加賀ではそれを上回る一揆勢力を撫で斬りしたと伝えています。

 別勢力である比叡山延暦寺でも、山に火をかけ三千人を成敗したと書かれています。


 この徹底した弾圧がもたらしたものは、その後の日本の宗教集団から武装兵力というものを一掃し、彼らの政治介入を絶ち、宗教本来の精神世界へ閉じ込めたという所業です。


 それまでの宗教集団は、広大な寺領からの収益や信者の布施、または座を統括しその収入の一部を納付させることで富を得、その利権を守るために僧兵という形で軍隊を組織していました。僧兵は朝廷や地方領主が自分たちの権益を侵すような命令を発すると、途端に暴れまわって政治介入を行って来ました。さらに信者を先導し一揆をけしかけます。一向一揆はその中でも最大の集団です。


 信長の理想主義は、こうした宗教集団による軍事化を一切認めないものでした。この思想は豊臣秀吉、徳川家康にも引き継がれ、その結果が、政権政府による寺社の統治政策になっていきます。


 江戸時代に入り何度か一揆は起きますが、それらは民衆の圧政に対する怒りが原動力であり、寺社にはそれらを先導する力も抑制する威厳もすでにありませんでした。また、明治政府が天皇制を復活させるために神道を謳い上げますが、これもプロパガンダの域を出ず、帝國軍部に富国昴揚のダシに使われる次第。


 現在、日本の憲法は政教分離を掲げています。宗教を信じるなというのではなく、宗教団体は政治には口を出すことは出来ない、という建前です。

 戦後に建てられた憲法ですが、戦国の一武将にその理想の一端を垣間見たようで、内心、納得するやら、いやこれでいいのかと疑問を持つやら、複雑な葛藤を残しつつ、ここで筆を下ろします。


 もしかしたら信長のこの荒療治は、世界で初めての政教分離に成功した例なのかもしれません。   kaolun