本能寺の変(天正十年六月二日未明)により台頭したのが羽柴秀吉なのは周知です。その後、柴田勝家を葬り、織田家の実権をのっとろうと画策して回ります。

 そんな彼に立ちはだかったのが徳川家康です。織田信長の息子信雄に加勢する形で尾張国に出兵したのが、天正十二年(1584)三月七日。これより八ヶ月半におよぶ小牧合戦の始まりです。


 今回、小牧合戦をテーマに選んだ理由が、その戦い方が前回の天正壬午の乱の新府城の対陣によく似ているから。時間軸から見れば、家康は二年前のあの対陣戦を、規模を大きくして繰り返そうとしたのではないかと考えられるからです。それが一つ。


 もう一つの理由が、城砦構築に関する疑問があったから。今回、それを調べてみました。


 有名な戦いなので皆さんご承知のことと思いますが、概略などを順を追って整理させて頂きます。




かをるんのブログ-小牧合戦1



 羽柴秀吉の高飛車な仕打ちに我慢のならなくなった織田信雄が、自らの臣(津川義冬、岡部重孝、浅井長時)を秀吉に内通したという理由から手討ちにして戦線布告。同盟者徳川家康と共に美濃境へと進軍します。


 ここで、美濃国を所領としていた池田恒興親子と女婿の森長可が秀吉方に付き、池田恒興親子によって信雄方の犬山城が奪取されてしまいます。

 この犬山城は、広大な木曽川の重要渡河点を抑える形で築城されたお城で、ここを秀吉方に取られたことで、戦線が尾張国に入ってしまいました。織田・徳川軍からすれば、かなりの痛手です。もし、ここを堅守出来ていれば、木曽川を防衛ラインとすることが出来たはずです。


 犬山城を奪取した秀吉軍はさらに南下し、次の防衛拠点となるべく小牧山を目指します。しかし、織田・徳川連合軍としてはこの要衝を取られるわけにはいきません。南下する敵軍の森長可隊を羽黒付近で迎え打ち、これを退けました。




かをるんのブログ-小牧合戦2



 こうした攻防の中、織田・徳川連合軍は小牧山を中心とした城砦防衛ラインを構築します。

 数で劣る連合軍。実質的な総大将たる徳川家康の戦略は自ずと見えてきます。ここで敵の本隊を足止めしておく間に、敵のさらに後方の武将たちと連携をとり、後方撹乱させることで敵の足並みを乱し、あわよくば瓦解せしめるといった作戦。そう、まさに二年前に使った、あの戦術そのものです。

 家康は、秀吉軍が敵陣ともいえる尾張国に深く侵入したこと、加えて、小牧山の要塞化改修がなったことで、あの新府城の勝利をもう一度再現しようとしたのでしょう。


 実際に秀吉の領国の後ろに当たる紀州の雑賀や根来衆、四国の長宗我部元親、北陸越中の佐々成政、中国の毛利へと連携をもとめて、ある程度成果をみせています。


 ただこの作戦が片手落ちで終わってしまった理由が、こうした外交の手腕が、家康よりも秀吉のほうが一歩先んじていたがためです。

 秀吉は毛利を懐柔し、紀州、四国、越中を封じ込め、余剰の出た軍で伊勢、伊賀に侵攻。お坊ちゃまの信雄の心胆を寒からしめ、結果、ほぼ勝利と呼べる講和を実現させてしまいます。


 家康も有利な講和条件をにらみつつの戦いだっただけに、得るものが無いとなれば、ため息一つで引き上げるしかありません。

 小牧合戦とはこういった戦でした。



 さて、もう一つの疑問のほうですが、


 織田・徳川連合軍の構築した小牧山防衛ラインが、なぜ東側ばかりに伸びているのか、ということです。


 よくお話し等で、小牧山は濃尾平野の平らな地勢にポツンと出っ張った小山だと言われていました。実際、地図を見ても、やや北に偏ってはいますが、ひらけた所にほくろのように目立つ小山です。

 この小牧山から東へ蟹清水、北外山、宇田津、田楽等の砦を築き、防衛ラインを作っています。ですが、西側にはこれといった砦が見当たりません。


 それは秀吉側の砦の構築状況もいっしょです。木曽川の渡河が難しい以上、犬山城を拠点にするのはわかりますが、そこから南へ羽黒城、楽田城と本陣を移すだけで、木曽川の下流方面へは兵を動かすことをしていません。

 「こんな広い平野で西に回りこまれたらどうするのだろう。」「なぜ西へ回って攻めないのだろう。」っていつも考えていました。


 で、先日、ある資料を見付けて、なるほどって手を叩いてしまいました。

 犬山城から小牧山の西側に沿うように地層の断層があって、その断層の形成する段丘崖があるんだそうです。現在は開発が進んでわかり難くなっていますが、当時は見た目にもわかるほどの崖を形成していたのではないか、という推論が出来ます。


 なぁるほど、北尾張はこの段丘崖で東西が別の地勢になってたんですね。岐阜から木曽川を渡るのに鵜沼から犬山へ出ると、幅の広い平地が西に段丘崖、東に山地に挟まれて南に延びている。大軍が移動し陣立て出来るのはこの平地部分に限定されているというわけですか。

 小牧山の西はこの段丘崖によって狭く塞がれいてる形です。これなら砦はいりませんね。


 他の地図と見比べると、この段丘崖に沿うように街道が走っているのがわかります。昔からの通り道だったんです。きっと地元の人なら当たり前だよって言うようなことかもしれませんが、地理に疎い私には、目から鱗の発見でした。



 小牧合戦の陣立てのなぞがやっと解けた。これがやりたくて歴史やってるんだよね。   kaolun