北条氏の敵は、まるでバトンタッチをするかのように謙信の上杉氏から、信玄の武田氏に代わります。その原因の多くは信玄の征服欲に起因します。


 天文23年(1554)の三国同盟で、後方の憂いなく信濃国侵略を行っていた武田信玄ですが、上杉謙信に阻まれ思うように進みません。そんな時、同盟の一翼である今川義元が討ち死にという事態が発生します。これにより今川氏は見る間に衰退。領地は独立した徳川家康に圧迫され始めていました。

 山中である武田領に、信玄は海に接する国を欲していました。すぐ南隣の駿河、遠江国は垂涎の的です。けれど今川は父の代からの同盟国です。おいそれとは「奪う」という訳にはいきませんが、放っておけば全てを徳川に奪われてしまう。そうした焦りが信玄にあったと思います。

 その焦りが欲望に火を付け、自らの息子を死に追いやってまでも、永禄11年(1568)駿河侵攻を行いせしめました。それは信玄らしく、何年も準備に時間を掛けた大規模なものです。


 さて、この状況に北条氏康公はその律儀さから今川氏援護に回り、武田と敵対することになります。

氏康公は武田軍の侵攻に、静岡市清水地区手前の薩多峠まで兵を繰り出し敵の進軍を阻みます。ですが、北条氏はこれで広大な戦線の全ての方向に敵を持つことになります。 それまでの北条氏は三国同盟を背景に、関東北部及び東部戦線での、上杉氏とそれを後ろ盾にした豪族達との抗争に辛くも競り勝っていましたが、その有利性を脅かす状況です。

この苦境の打破に、氏康公は長い間抗争を繰り返してきた当の上杉氏と同盟を結ぶ決意をします。当時の状況からすればこの同盟の締結は五分々々の成功率ではなかったかと。信玄の戦略が北部侵攻から南部攻略に移ったことは明らかです。川中島への大規模出兵も永禄7年(1564)以降鳴りを潜め、西上野国の戦線は箕輪城の攻略で落ち着いています。上杉側からすれば南西側からの脅威が薄らぎ、関東へ力を回せるようになった訳です。パワーバランス的には北条と手を組む必要性は、上杉側にはないんですね。

 氏康公は上野国からの撤退と武蔵国北辺の譲渡、そして謙信の関東管領職の承認するかたちでこの同盟を成功させます。歴史的には苦肉の策とされる同盟ですが、当時の氏康公のこの決断は、彼の胆力の大きさと強さが垣間見える業績だと思えます。




 翌永禄12年(1569)、武田信玄は大軍を擁し西上野から関東平野へ侵入し鉢形城を包囲。包囲軍を残しただけでそのまま南下し、こんどは滝山城を囲みます。その滝山城も最小限の軍で包囲させ、本隊で北条氏の本城小田原城の攻撃に出ました。(説明図が下の方にあります。どういう訳か図がこの行に入ってくれませんでした。)


 この信玄の小田原攻めは、問題定義の多い軍事行動ですがここでは割愛させて頂いて(三増峠の戦いは以前グルっぽのほうでダベらせて頂きました。説明図もその時のものです。)、この信玄の攻撃に氏康公は徹底した篭城戦を展開します。これは上杉謙信の小田原攻めの時と戦術的には同じものです。これは長い時間を掛けて整備した城塞どうしのネットワークと、それを可動せしめる氏康公の指導力がものをいった作戦です。ゼロから始まった北条家が五代も続いた秘訣もこの辺りにあるのかもしれません。

 

 

かをるんのブログ-氏康3-3



 この戦いは大きくは北条側の勝利です。退却する武田軍に三増峠で逆撃をくらいましたが、小田原からの撤退の四日目に、包囲していたはずの鉢形城、滝山城から纏まった数の迎撃軍が出てくること事態が、すでに信玄の行軍の失敗を示しています。


 この戦いの後くらいから氏康公の体調がおかしくなり始めたようです。重度の通風とか、脳溢血症状が出たとか云われています。死去は元亀2年(1571)10月3日。57年のまさに戦国の大名というに相応しい生涯でした。彼の死後の北条家は、領土の拡大こそありますがその内容は保守に傾いていきます。     kaolun


かをるんのブログ-氏康3-1

上の地図は元亀2年(1571)ころの関東の勢力図です。ちょっと鳥瞰風にしてみました。武田信玄はこの版図で、北条と同盟し上杉を抑えて西上作戦を開始します。


かをるんのブログ-氏康3-2