北条氏康②、今回は上杉謙信の小田原攻めです。


 三国同盟は歴史的結果はともかく、当時の甲相駿各国それぞれに、有意義に働きました。

 武田氏は新領土信濃国を整備する時間と、対上杉への戦略上の優位性。

 今川氏は遠江国の地盤固めに三河国の領国化促進。

 そして北条氏は関東平野部の更なる勢力圏拡大です。けれどその思惑は思ったほどに進んではくれませんでした。

 広がる勢力は新たな敵を作ります。その敵が思いの外強敵でした。


 長尾景虎は廿才過ぎたばかりで越後国を統一した軍事の天才です。この景虎に、北条氏康によって関東を追い出された山内上杉氏の当主憲政が助けを請いました。三国同盟前の天文21年(1552)景虎は早くも関東に兵を出し、上野国に攻め上がった北条軍を追い出しています。

 この上野国をめぐって、北条氏と越後勢は小競り合いを繰り返しますが、永禄4年(1561)、上杉姓を譲られた景虎、後の上杉謙信は、関東管領の名の下に関東諸豪族に檄を発し、北条氏殲滅の軍を起こしました。

 上杉の小田原攻めです。


かをるんのブログ-謙信1


 十万と云われた上杉謙信の軍勢に、北条氏康は徹底した篭城戦で対抗します。

 日本で最大と言われる関東平野。広大に開けたこの大地は、攻めるに易く、守りが極端に難しい場所です。これを逆手に取ったのが氏康の戦法です。

 大軍を領内深く誘い込み、兵站線が延びたところに揺さ振りを掛け敵の動揺を誘う。動揺した敵は纏まりを欠き、そこを狙って今度は攻守ところを変えて攻勢に出る。四方開けた場所で寄るべき塞を持たない遠征軍は、八方からの攻撃に悩まされ殲滅されるか逃げ帰るか。実際、上杉軍はこの戦法に乗り、得るところ無く撤退しています。

 核となる上杉精鋭部隊がいなくなった平野で、北条軍は巻き返しをはかり奪われた城と寝返った小領主達の大半を奪い返しました。北条側の勝利です。


 この戦法を用いるには二つの要素が必要です。

 一つは大軍を足止め出来る堅固な城塞。開けた場所では特に重要です。北条氏では改修を重ねた小田原城。甲斐の武田氏などは守備の拠点を領地縁に当たる峠に置けるために城塞の重要性を軽んじる傾向があります。

 そしてもう一つは領内の民衆の支持です。これが無ければ反撃を掛ける前に、領国は切り取られ自らが孤立してそのまま滅亡ということになるでしょう。

 北条氏は戦国一の民政家と言われています。関東では悪政を敷く上杉を倒してくれた解放者なのです。このことは北条氏が単に民に優しい家柄というのではなく、関東という特殊な土地を治める為には、他の土地以上に民衆の支持が必要だったからだとはいえないでしょうか。


 この後も幾度となく上杉勢は関東平野へ兵を出しますが、北条氏の勢力を弱めることは出来ませんでした。

 これらの戦術は北条氏の基本戦略の内にあるもので氏康公の才能というものではないのでしょうが、この作戦を遂行するにあたり、長い時間耐えの姿勢を取ることになる将兵や民衆の心を繋ぎ止める彼の統率力は賞賛に値します。


 次は武田信玄との戦いになりますか。      kaolun