北条氏の追っ掛けも三代目に入り、戦国ブームの立役者の一人、氏康公の時代になりました。

 (本当は関係地等の写真を織り交ぜて作っていけるといいんですけど、ちょっと忙しくてナカナカうまくはいきません。机上の説明だけじゃ、つまらないのはわかっているんですけど・・・。ごめんなさい。)


 氏康公といえば川越夜戦が有名。天文10年(1541)父氏綱の病死で、名実共に当主になって5年目のことです。

 このころ、関東で突出し始めた北条氏を、周囲がおもしろく思わなくなってきたのでしょう。直接対決している山内、扇谷両上杉氏に、今川義元や妹婿の古河公方も加えて、北条包囲網とでもいうべき体制が出来ていました。当主になったばかりの氏康公は、西に北に奮闘冷めやらずの日々が続きます。


 そんな状況下で天文15年(1546)、上杉連合軍が大軍を擁し川越城へ攻め寄せました。

 氏康はこれを奇計と夜襲で打ち破ったと云います。これが川越夜戦呼ばれる戦いです。

 細かいことは、嘘か真かわかりませんがネット上に沢山書かれていますので、そちらを見て頂くとして、この戦いは北条軍の大勝となって、扇谷上杉氏は滅亡。山内上杉氏もこれより勢力を巻き返すことが出来ず、天文20年には当主憲政が関東から追放されてしまいます。

 抗っていた足利晴氏もついには幽閉され、傀儡職となった古河公方の権威は、ここで事実上の終焉になったといえます。


 博打に勝った氏康公は、関東南部の実権を手中にして、さて一気に関東全土の掌握だ、と思ったでしょうが、世の中はそんなに甘くはありませんでした。

 北の敵にてこずっている間に、西の山の中でそれまで以上に手強い敵が力をつけていました。いわずと知れた晴信率いる武田軍団です。彼が同盟者今川義元と共に動き出すと、北条になびき掛けた北関東の諸豪族達の抵抗が強くなっていきました。

 松山城、古河城まで押し上げた勢力圏がここで足踏み状態になってしまいます。加えて、駿河国富士川以東の領地も奪回はおろか、押し戻されぎみに。


 この睨み合いの状況に、誰が話しを持ち掛けたのか、いまいちよくわかりませんが、天文23年(1554)武田、今川の同盟に北条を加えた三国同盟が締結する訳です。


 この同盟話し、一般には今川家の太原雪斎禅師がまとめたということになっていますが、実際はどうなんでしょうか。当時から関東、東海辺りでは彼の名声は可也のものだったらしく、同盟の仲介者としては的を得ている気はしますが、今川側から北条側へ話を持っていったにしては、駿河国河東地区の領土紛争が、今川に有利過ぎる気がしています。そこまで北条側が押されていたのか、この地に見切りをつけ関東制覇の大望を考えた氏康公の深謀なのか、そのへんは皆さんがどう取るかでしょうか。


 下の図はこの三国同盟が締結したころの勢力図です。(毎回荒くてすいません。)


かをるんのブログ-同盟ごろ地図1


 箕輪城は長野氏、館林には赤井氏、唐沢山城は佐野氏、それに結城氏、小田氏、宇都宮氏等、関東北部から南常陸国の諸豪族が北条氏に抵抗しています。

 武田はすでに信濃国の中南部を手中にし、佐久から小県へ勢力を広げていました。天文22年には川中島で上杉氏と初めて戦っています。

 今川氏は、尾張国の織田信秀の死去からこっち、三河国の領国化を順調に進めています。

 里見氏は国府台合戦での敗北で一時鳴りを潜めていましたが、瓦解した小弓公方と真里谷氏の領土を取り込み、勢力を盛り返しています。佐竹氏が常陸国南部に進出してくるのはもう少し先。


 さてこの後、北条氏康公は越後の竜との泥沼の戦いに入ります。

 ここまで書いていてなんですが、戦国時代真っ只中って感じですね。戦いも規模が大きくなってきます。

 氏康公の時代は勃興と共に新たな戦乱の坩堝で悪戦苦闘が続く大変な時代です。そんな中、守り難い関東平野の領土を維持していく彼の軍略、外交、そして基盤となる民政の妙は、他の戦国大名より一歩抜け出していると言っても過言ではないと思います。

 そのへんは長くなるので、また機会がありましたら続けてみます。どこまで書けるかわかりませんが、わかり易く講釈ぶちたいと思っております。    kaolun