北条氏綱という人は、父親である創業者早雲と、武田、上杉を退けた息子氏康に挟まれて、あまり表立った評価をされていないような気がします。
 彼が家督を継いだのは30才過ぎ。それまでの業績は父早雲と被って記録されているのも事実です。けれどその行政能力や戦の駆け引きには、感嘆するものがあります。

 早雲が小田原城を攻略したのは明応4~5年(1495~6)ころ、氏綱が10才ほどのころです。早雲は死ぬまで居城を韮山としていたと云いますから、相模国攻略の橋頭堡としての小田原城に、元服した息子とその家臣団を入れていた可能性は大です。時には父と共に、時には単独で戦場を駆け回り、上杉勢力と一進一退を繰り返しながらも、永正13年(1516)三浦氏を亡ぼして相模国をほぼ手中に治めました。この戦いの中で、彼は戦の駆け引きと国の統治方法を学んだのでしょう。

 大永3年(1523)、父早雲が死去して4年が経った年に、氏綱は名字を伊勢から北条へと改めます。相模国統治のみならず、関東への進出戦略を踏まえたものであることは間違いないでしょう。伊勢氏も北条氏も同じ桓武平氏からの別れで、いままで言われていたように、後北条氏が勝手に北条姓を名乗ったわけではなかった訳です。


かをるんのブログ-氏綱1



 始めの説明図はこの大永3年ころの関東の勢力図です(荒くて申し訳ありません)。


 関東は鎌倉公方家が戦国期中ごろまでその権威を保持し続けるので、勢力分布が複雑になって戦国史の勉強が大変面倒臭い。古河公方の勢力範囲も大雑把に東関東の諸豪族が参加しているといった感じです。
 また、このころは関東管領上杉氏の勢力が本家山内家と扇谷家に別れ、争ったりくっついたりしながら北条氏の侵略に対抗していました。さらに主筋の鎌倉公方家が室町幕府に宣戦布告をしたために、家来筋の上杉氏が幕府側で戦うといった泥沼のような関東史が根底にあったりします。このあたりが、北条氏が関東に進出するスキになったのでしょう。


 これ以降もしばらくは、北条、上杉両氏とも一進一退が続きます。
 氏綱は太田資高を勧誘し江戸城の攻略に成功しますが、それより北の戦線は甲斐武田氏の介入もあって、押し戻されています。


 転機は享禄3年(1530)の小沢原(現在のよみうりランド辺りではないかと)の戦いに扇谷朝興の軍勢を破った一戦で、ここから扇谷上杉氏はその勢力の弱体化が止まらなくなり、天文6年(1537) 氏綱は、朝興の死去に乗じて武蔵国の要衝川越城を奪取します。同時に古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ同盟に成功しています。この同盟が次年の国府台合戦の引き金になります。


かをるんのブログ-氏綱2


 第一次国府台合戦の話しをするには、北条方の敵になる小弓公方の説明が必要です。
 古河公方三代目足利高基の弟義明(法体名空然)は、上総の戦国大名真里谷信清に担ぎ出されて小弓城に入ります。これが小弓公方の始まりです。この義明が次第に力をつけ関東東南部の豪族達を糾合、本家の古河公方に取って代わり関東の覇者たろうと動きます。

 古河公方はこの分家の裏切り行為は許せません。また、北条氏綱にしても、小弓公方の成立に手を貸した経緯もありましたが、その勢力が自己の戦略の対抗馬として伸し上がってきては放ってもおけません。

 両者の思惑が合致し、現在の東京都と千葉県の県境である江戸川を挟むように、北条、古河公方連合軍と、房総の真里谷氏や里見氏を中心とした小弓公方軍との合戦が開始されました。


 経過を書く余裕が無いので結果を急ぎますと、北条、古河公方連合軍の勝利に終わります。

 足利義明は討死に、小弓公方家は事実上滅亡。真里谷氏、里見氏は逼塞。

 北条氏綱は千葉氏を支援する形で下総国を勢力下に治めてしまいました。


かをるんのブログ-氏綱3



 この合戦の少し前から、上杉氏は言うに及ばず、甲斐国の武田氏、宗主国のような駿河国の今川氏とも敵対関係に陥っていたことを考慮すれば、氏綱の攻守戦略や外交手腕の巧みさには驚かされます。


 3年後、氏綱は病死しますが、この時にはすでに関東南部の主権と、そして氏康という珠玉の跡取りを得ていました。      kaolun