試し読みで面白かったので購入。

 

マリーアントワネットの日記
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かの有名なマリーアントワネットが、日記帳にマリアと名付けて書いた日記で、誰にも見せるつもりのない日記なので、超主観の言いたい放題で、口調もほぼJKです。

 

日記は、フランスに嫁ぐちょっと前から、前国王ルイ15世の崩御までのRoseと、その後から断頭台に向かう直前までのBlueの2巻になっております。

 

Roseの登場人物

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少しネタバレおりますので、お気をつけあそばせペコリ

 

マリー・アントワネットは、オーストリアの名門ハプスブルグ家の十一女としてうまれ、オーストリア名はマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンで、姉妹の名はみんなマリアなので、普段はアントーニアと呼ばれる。

父は神聖ローマ皇帝フランツ一世、母はオーストリア女大公マリア・テレジア

 

1770年1月1日(月)、母に言われ日記を始めるが、本当は4日にまとめて3日分書いている。

あたしがフランス王太子妃とかwww超ウケるんですけどwwwてな感じで日記は進みます。

2年前の春、すぐ上の大の仲良しの姉マリア・カロリーナがナポリへ嫁いだのは、本来嫁ぐはずだったマリア・ヨーゼファ姉が天然痘で亡くなったために繰り上げられて、マリア・カロリーナ姉が嫁ぐはずだったフランスに、自分が繰り上げ当選したのでした。

自分達が求められていることは、かわいく着飾り、ニコニコ笑っていることだから、疑問を持ったら不幸になるだけ、疑問を持ったら不幸になるだけです(大切なことだから二回言っとくね。)

正式に婚約が決まってから、フランスから来た家庭教師のヴェルモン神父が、彼女をフランス風のマリー・アントワネットと呼び、次第に宮中でもそう呼ばれるようになる。

1770年1月4日(木)いえ~い!三日坊主にならずにすんだyeah~!5日にこれを書いています)

オーストリア宮廷の格式張らない中で育った「あたし」は、ヴェルモン神父の伝統に則った教育に四苦八苦して、フランスの伝統はせいぜい100年ぐらいで、ハプスブルグ家はブルボン家より300年以上古い家系なので、たいした伝統じゃないですね。とかいちいち突っかかっていたら、とうとう母にこってり油をしぼられる。

1770年2月11日(日)、2月7日(水)に初潮を迎えた時(14歳)の周りの様子が書かれ、フランス国王ルイ15世(齢60にして色好みと評判)には早馬を飛ばす。

1770年4月16日(月)、フランスの王太子殿下の手のひらサイズの肖像画が届く。

その時母には、実際は似ても似つかないかもしれないから、うつつを抜かさないように言われるが、それならお互い様ってやつですね。と返してしまう。

なぜなら自分も肖像画を描くため、針金で歯列矯正して、くせ毛とでこっぱちを目立たなくするためのヘアスタイル、キツいコルセットをつけ、フランスの最新モードのドレスを着て、髪粉※をふって頭を白く染め、頬に丸く紅をさし、実物とはまったく違う創造物が完成。

※小麦粉や米粉を材料として、香油やポマードを髪に付けたあとふりかける。フランス革命の少し前、小麦粉が高騰した際、王妃の彼女は髪粉を使わないようにつとめる。

1770年4月20日(金)、王宮で過ごす最後の夜、夫になるルイ16世宛の手紙を書く。

15日に輿入れ用馬車48台が、フランスから到着して以来、ウイーンはお祭り騒ぎ。

前日には、輿入れの時に自国で行う代理結婚式を、新郎の代理としてすぐ上のフェルディナント兄が努め、あたしはやらかしてしまい、トワネットちゃんオワタ\(^o^)/。。。

 

日にちが空いてしまうと、言い訳を書いたり、無理!と書いたり、それでも日記は止めませんでした。

 

花嫁の引き継ぎは、フランス・オーストリアの国境のライン川の中洲に館を立てて行われるとか、またフランスの意味のわからないしきたりとか、14歳の「あたし」の息の詰まる生活が、手に取るようにわかりました。

 

軽い口調で読みやすく書かれているのですが、内容は史実に忠実に書かれているので、当時の宮廷での様子がよくわかり、とっても面白い作品でした。

 

それと学生の頃、ペストの大流行は習ったのですが、早くから種痘が行われていたのに、王族や貴族が天然痘で亡くなったのは知りませんでした。

調べたら、時期的に当時の予防接種は、受けた人の2%が亡くなっていて、まだ安全性が低かった為に、王族や貴族は受けなかったのでしょう。

 

Blueはしばしお待ちをペコリ