50年前の今日、筆者はこの世に生を授かりました。無事に50歳の誕生日を迎えることが出来ました。

改めて両親をはじめ、数えきれないほど今まで出会ったたくさんのお世話になった方々に感謝を伝えたいです。ありがとうございます


昭和49年4月3日水曜日午前8時45分

現在の大阪市平野区瓜破の病院で産まれました。当時はまだ平野区は存在してなく、東住吉区の一部でした(産まれてから4ヶ月後に東住吉区から独立)


実は今の勤め先に関わっている建物のはす向かいに産まれた病院があります。
当時はもっと小さな病院だったそうですが、今はきれいに建て変わっています。

産まれてしばらくは東住吉区(平野区)長吉出戸のアパートに暮らしていました。

この地も勤め先に関わっている住宅展示場(建設中)のすぐ近くなんです。何か縁を感じますね。

当時住んでいたアパートは現在は存在してなく、場所もはっきりと覚えていません。
なのでOsaka Metro谷町線出戸駅付近の写真をつけておきますね。

母親の影響で歌や音楽を聴くのが好きで、初めて口ずさんだ歌が細川たかしさんの「心のこり(私バカよね♪)」という赤ん坊時代を経て、1~2歳の頃に大阪市住之江区西加賀屋という所に引っ越しました。
3歳の夏に弟ができて、4人家族となりました。

親から聞いた話では、筆者は大のオシャベリ好きで、公設市場の肉屋の大将やら床屋のオジサンに至るまで、家族の個人情報などベラベラ喋っていたそうです。口が軽すぎる……

またこの当時、歴史に残る大事件に巻き込まれたということがありました。
昭和54年1月26日。当時4歳の筆者は、未就園児の学習教室みたいな所に通っていました。
母親が運転する自家用車で阿倍野区の姫松に向かうのですが、途中から道が大渋滞となりまったく身動きが取れない。
完全に道路が封鎖されてしまったらしく、教室には欠席の連絡を入れて、どうにかして帰宅したとのことです。
帰宅してテレビを点けると、何やら物騒な実況中継が…
あの「三菱銀行北畠支店・猟銃立て籠り強盗事件」だったのです。
人質数十名を取って立て籠り、行員・警官4名が犠牲になったあの事件です。
事件解決まで42時間を要し、最後は犯人の射殺で幕を閉じたという歴史的事件の現場近くに遭遇していたんですね。

昭和54年の春、筆者は幼稚園に入園します。
初めは住んでいた住之江区内の私立幼稚園に3年保育で通うつもりだったのですが、周りの人の薦めで大阪教育大学の附属幼稚園に通うことになり、入園試験もパスして大阪市平野区に再び引っ越すことになりました。

当時の国鉄関西本線、今のJR大和路線平野駅前のマンションです。
住之江時代はオシャベリ好きで、何でも話をしていたのに、入園してからは大人しくてなかなか友達もうまく作れなかった。
そういえば、入園までは大人の人に囲まれて、近所の友達といえば、隣に住む年上の子ぐらいしか付き合いがなかったからか同年代の友達作りが苦手だったのかもしれません。
それでも同じマンションや線路を隔てた近くのマンションに住む同級生たちと徐々に遊ぶようになって(親同士の付き合いも手伝って)いきました。

そんなある日、何がキッカケだったのか全く覚えちゃいないのですが、そこそこ仲がよかった友達と取っ組み合いの大喧嘩をする事件が勃発したのです。
その時先生は、二人の喧嘩を止めることなくじっと観ていたそうですが。
正直「アノ大人しいコが……」と驚いたのかもしれませんし、筆者もどこにそんな感情があったのか、何が筆者をそこまで駆り立てたのか、、全くわかりません!
(その喧嘩の相手もあまり目立たない大人しい子だったそうです)
ただドラマやアニメにありがちな「喧嘩のあとで芽生える友情・深まる絆」みたいなのを得た。先生の判断は間違ってなかった、と後からそう思います。
そうやって人は成長していくのですね。

それともうひとつ、後の人格形成にと言ったら大袈裟ですが、平野に越してからの大きなトピックとして「線路脇に住む」ことで芽生えた「鉄道ヲタク」ムーヴメントです。
家のベランダから線路を見下ろすように見ることができ、普通電車の101系や快速電車の111系の他、時々百済発着のDD51ディーゼル機関車に牽引された貨物列車も観察できました。
こうした日常から鉄道に関心を示し、現在に至っています。
昭和57年の王寺水害で水没し、廃車を余儀なくされた車両の補填のため、当時中央快速線中央総武緩行線で引退したオレンジカナリア色の101系が東京から応援で来たときはそのカラフルさにとても興奮した事を覚えています。

2年保育の幼稚園を卒園し、そのままエスカレーター式で附属小学校に入学します。
ここからのお話は前回のブログ「『人前で話すのが得意』になるまで」に続きます。

小学6年生の夏に今も実家としてある、大阪市生野区に引っ越し、中学・高校とこれまた大阪教育大学の附属に通い続けておりました。

自慢するわけではありませんが、小学生の頃は成績も割と上位で、私立の有名進学校も目指せるなどと言われてましたが、友達と離れたくないとか私立は学費が嵩むとか(妙に家庭の経済事情に忖度して)理由をつけて、附属に残る選択をしました。

中学まではそれで良かったのかもしれません。
文化祭で「東の魔女(オズの魔法使い)」を熱演しクラスの人気を得たり、生徒会役員に選ばれたりもしました。

高校に進学してからもブラバン活動や文化委員長を務め、文化祭の企画・運営に全力を尽くしたりしましたが、そっちに集中するあまり学業成績は右肩下がり。
終いには学年で下から二番目にまで堕ちてしまいました。
置いてきぼりにされたような気分で、かつてはあれほどクラスの人気上位にいたのが、ぽつりぽつりと自分から離れて行ってしまう……
委員会活動とか学業に関係ないものを自分に押し付けておいて、周りは受験勉強に集中するんだって被害妄想に陥ったこともありました。

総じて高校時代はあまり良い思い出がなく、今でも黒歴史だったと思っています。
もっと青春を謳歌したかった、と悔やんでも悔やみきれず、高校進学時の選択を誤ったとも思っています。ただ一つを除いては。

どうにかこうにか大学受験は現役合格して、近畿大学法学部法律学科への入学が決まりました。またここからの話は別の機会に詳しく致しましょう。

ここまでで50分の18。
大学卒業が23歳(ワケありで5年通ってました)。
これまでの人生の半分強が社会人生活になっているワケですね。
人生のはじめの方は長く感じて、社会人になってからあっという間に感じる。
特に小学校の6年間はとても長く感じた。
脳科学的に「ジャネーの法則」とも言うらしく、それは人間誰もが感じる当たり前のコトなんだとか。

あと何年働くことができるのか、あと何年働かせてもらえるのか、あと何年生き延びられるのか?
人生の折り返しはとうに過ぎたと思っているが(100まで生きられたら別だけど、現実的にね)これからどう生きるか、生きていきたいか、日々自身をアップデートさせながら、身の丈に合った生き方を考えさせられた、人生の振り返りと考察の機会となった50回目の記念日でした。

さぁさ、祝って!
こんなワタシにも……