S刑事が私筆者の自宅を訪ねて来た。まずS刑事は私(筆者)の両親に挨拶をした後、

「大変なことに巻き込まれましたね」

とねぎらいの言葉を話された。そして私(筆者)がオウム真理教出家信者として清流精舎で生活していた状況を、特に誰とどのようなことをしていたか?について詳しく聞かれた。

 私(筆者)が逮捕される要因となった自動小銃密造の件についても尋ねられたが、それよりも清流精舎での生活について聞かれたことが大半だった。


 私(筆者)は最初に村井秀夫に会ったこと、先輩信者T君と数ヶ月間を燃料電池の開発を手掛けたこと、その後 村井に命じられ広瀬健一の部下となり、その指示で教団のワークをしていたことなどの概略を話した。

 その後、教祖麻原について聞かれたが、私(筆者)はこの時点においても自分が騙され利用されていたことは理解してはいても、明確に麻原の人格否定まではできていない状態だったため、明確に答えることはできなかった。しかし時間の経過と共に麻原が教祖だ、グルだとは到底呼べない者であることはより強く、はっきりと認識できるようになっていった。


 S刑事が私(筆者)の自宅を訪問するようになって3回目くらいだったと記憶しているが、広瀬健一が逮捕された後に私(筆者)の上司となった教団中堅幹部のH師から電話があった。その時私(筆者)は電話には出ずに私(筆者)の親父とS刑事がH師と話した。話の内容はまあ当然と言えるかも知れないが、私(筆者)と話がしたいということだった。 当然私(筆者)が教団に復帰することを期待してのことであることは明らかだった。

 そこでS刑事からの依頼で、教団側がどのような考え、状態であるか知りたいため、自分も立ち会うので彼らと会ってもらえないかという話になり、私(筆者)もそれを承諾した。


 1995年 8月の下旬のある日、教団サティアンとも私(筆者)の自宅とも別の場所で教団H師とVN師、私(筆者)と私(筆者)の親父、S刑事の 5人がある程度の広さの駐車場に集まっていた。そこで私(筆者)の親父が車のキーを抜いた状態で、「この中で話すか?」と言って出ていき、私(筆者)と教団H師とVN師の3人が車内に残り話をすることになった。


 二人の教団幹部は、「マスコミの流す嘘の情報に惑わされないで欲しい」というようなことを述べたが、それはもはや私(筆者)には通用しない言い方だった。

 地下鉄サリン事件は教団が犯したことは間違いないということは、私(筆者)にはとうに確信できていた。広瀬健一もそうだが他の実行犯達も(当時まだ逮捕されていなかった林泰男以外)すべて自分が犯したと認めていることも知っていた。

 それに対して彼ら中堅幹部は幹部であるにも関わらず、正しい情報を与えられていないことは最初の会話の段階で私(筆者)にはすぐに分かった。そこで押し問答をしても平行線の議論になるだけである。実際そうなりかけた。

 具体的な言葉は忘れてしまったが、私(筆者)は「嘘を根本とした修行をしても嘘の結果しか出ない」といったような表現をしたことを覚えている。それに対して特にVN師の方が頑なな態度を示し「この世は幻影であり、真理こそが絶対である」というようなゴマカシともとれるような言葉を発したが、誤魔化そうとはしておらず、〝真剣に騙されているなあ〞と私(筆者)は感じた。


 私(筆者)は百歩譲って他の実行犯達のことは置いておき、広瀬健一のことに絞って話を進めた。

 私(筆者)が逮捕勾留中の取り調べにおいて、広瀬健一が供述調書(上申書=弁録)に


私、広瀬健一は地下鉄の車内に猛毒のサリンを散布するという大罪を犯しました・・・

 という書き出しで始まる自分の罪を認める主旨を書いていることを話し、筆跡も間違いなく広瀬本人のものであることを知らせた。

 そして日付は逮捕当日のものであり、広瀬健一はすぐに罪を認めている(実際は広瀬健一が罪を認める供述を始めたのは1995年 6月以降だがこの時点ではそれは明らかになっていなかった)ことを付け加えたが、もちろんわずかだが脅されたり暴行を受けたりして書くことを強要された可能性もあることも私(筆者)は彼らに伝えた。

 これらのことから判断して、教団が無実である可能性は圧倒的に低いこと、そして教団が無実でないなら私(筆者)は教団に戻るつもりは一切ないこと、もし万一の可能性があるとすれば、秋から始まる裁判において広瀬健一が罪を認める供述を完全にひっくり返し、自分は無実であると主張することがあればその時改めて検討はするという主旨を私(筆者)は彼らに述べた。

※いくら広瀬健一が気が弱く、脅しに屈して罪を認める供述調書を書かされたとしても、もし本当にやっていないのなら、裁判でそれが主張できないような人間ではないことぐらいはさすがに彼らも理解はしてくれたようだった。実際そのようなことは全くなく、自分がやったことをそのまま認めただけであるのだが、広瀬も無実だと信じる者達にはそれくらいの説明は必要だった。


 そして結局限りなく平行線に近かったこれらの議論も約30分ほどで終わりを迎えた。彼らの最後の言葉は

「裁判で確認します」

 というものだった。・・・
・・・・
・・・・
・・・?


 この光景はついこの間どこかで見たことがあった。その通り!先月私(筆者)が逮捕勾留されていた時の取り調べでのK警部補と私(筆者)のやり取りそのものである!


 まさに時間を1ヶ月さかのぼれば彼らの姿はその時の私(筆者)の姿そのものだったのだ。どのような情報を与えられるかで人とはこれだけ違うものなのだ、ということを身をもって体験する思いであった。
 
・・・・・・・・・




 そして秋がやって来た。最初から分かっていたが、広瀬健一は裁判の始めにあっさりと自分の罪を認め、残された信者達に対して考え直すことを勧める発言を行い、ここでようやく教団の無実を頑なに信じる者達にも教団が無実でないことは明らかとなった。

 
 運なのか巡り合わせか!この時期(1995年夏から秋)より早くても遅くても教団から脱会しようとすれば、時期が早ければ気付かれないように脱走し諜報省の追っ手から逃げ切らなくてはならず、時期が遅ければ教団が麻原を正当化する言い訳を創作し、教団をやめても三悪趣に落ちるだけで行くところはない、などという脅しや洗脳を受けることになる可能性があった。

 しかし私(筆者)は正面から教団幹部に脱会を宣告してやめることができた。結果的に8月末の教団幹部2名との話し合いを最後にどの教団信者とも接したことは現在まで全くない状態である。


 私(筆者)はこのようにしてオウム真理教から決別することとなったのであった。運と巡り合わせに恵まれた〝知らぬが仏〞 そのものだったかも知れない。


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