『ねずさんの ひとりごと』 右近と敦忠の恋の行方 | Miraiのブログ

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冷泉為恭の描いた右近冷泉為恭の描いた右近



右近(うこん)というのは、平安中期の女流歌人です。
父親が右近衛少将だったことから、宮中では右近と呼ばれました。

右近がまだ若かった頃のことです。
彼女は、藤原敦忠と深い恋仲になります。

藤原敦忠は、藤原時平の三男で、若い頃から楽器が得意で、その演奏は、聞く人の心をとろけさせるような妙味があったといわれています。
そういう、楽器をよくする男性というのは、今も昔も変わらずよくモテたのですね。

彼は、右近と深い仲になるのですけれど、二人は何かの事情で、別れてしまうわけです。
この頃の敦忠の身分は、従五位下で、宮中では、もっとも下の位でした。
父は立派な人だったけれど、だからといって、当時の宮中では、そうそう簡単には出世させてもらえなかったのです。

けれど敦忠は、イイ男です。
右近と別れた敦忠は、ある日、雅子内親王(がしないしんのう)と恋仲になります。
雅子内親王は、第60代醍醐天皇の皇女です。

その二人が、深い仲になった頃の歌が、百人一首に掲載されています。

 逢ひ見てののちの心にくらぶれば
 昔はものを思はざりけり


「逢ひ」というのは、男女が出逢うことを意味します。
遠くから見ていた片思いのときから、実際にこうして出逢ってみたら、それまでの片思いなどまるで何も想っていたと思えるほど、今、貴女が愛(いと)しいのです)、という歌です。
もう、熱々です。

けれど、身分が違う。
片や、皇女なのです。

心配した周囲の人は、二人を別れさせようとします。
けれど、「別れろ」と周囲が反対すればするほど、二人の恋心はたかまってしまう。
それが昔も今も、若い二人の恋というものです。

そこで周囲の人は、雅子内親王を(敦忠と引き離すために)、京の都から、伊勢神宮の斎宮(いわいのみや)に送ってしまいます。
斎宮(いわいのみや)というのは、伊勢神宮において天照大御神の依代をする女性のことです。
代々皇女から選ばれていました。
神様の依代となる女性ですから、当然、男性との恋愛は絶たれます。

これが935年のことです。
この時点で敦忠29歳、雅子内親王25歳です。

このとき敦忠は何を思ったでしょうか。
身分が違うから、二人は引き離されたのです。

「ならば、その身分に引き合う男に成長してみせる!」
敦忠は決意を固めました。
彼は、その日から、猛然と、仕事の鬼になりました。
誰よりも早く登朝し、誰よりも遅くまで誰よりもたくさんの仕事をこなし続けました。

もともと頭もよく、俊才で、見栄えも良い男です。
翌年には左近衛権中将兼播磨守に任ぜられると、939年には従四位上参議に列せられ、942年には近江権守、942年には従三位権中納言に叙せられます。
彼はみるみる出世したのです。

しかし彼の仕事への執着は、彼の肉体を蝕みました。
943年には体を壊し、そして桜の散るころ、彼は衰弱し、病の床に伏せるようになりました。

右近は、十数年ぶりに、敦忠に一首の歌を送りました。

 忘らるる身をば思はず誓ひてし
 人の命の惜しくもあるかな


(あなたは私のことなど、もうすっかりお忘れになっていることでしょうけれど、そんな忘れられる女になるとも思わずに、その昔、あなたと永遠の愛を誓い合いましたわね。そんなあなたが、いま病の床に臥せっているとうかがいました。あなたのお命が失われることが、私にはしのびないです。どうか一日も早くお体を回復され、またもとの元気なお姿に戻ってくださいね)

この時代、歌を送られれば、歌をお返しするのが礼儀とされた時代です。
けれど、敦忠からの返事の和歌は、右近のもとに届くことはありませんでした。
敦忠は、返歌を詠む前に、召されてしまったのです。

右近は、敦忠と、その昔交際していて、後に別れてしまった女性だったのです。
けれど、別れても、右近はずっと敦忠のことが好きでした。
心の底から愛していたのですね。
敦忠は、身近な宮中にいるけれど、もはや右近からみたら遠い人です。
右近は、自分の気持ちを隠して、遠くから敦忠を見続けるしかなかったのでしょう。

そんな右近の目には、敦忠が雅子内親王への断ち切れない慕情から、無理に無理を重ねて仕事の鬼となっている様子がはっきりとわかりました。
「あんなに無理をしていたら、お体にさわります」
けれど、だからといって、別れた右近にはどうすることもできなかったのです。

別れてから十数年が経ちました。
その間、いろいろなことがありました。
そして、敦忠は、ついに病の床に臥せってしまうわけです。

心配で心配でたまらない右近は、ある日、意を決して、敦忠に歌を送りました。
そのときのことが大和物語に書かれています。
たったひとことです。

 かえしはきかず。

つまり、返事はなかった、ということです。
返事を書く前に敦忠は死んでしまったのです。


そんな右近の歌と、敦忠の歌は、両方とも百人一首に掲載されています。
右近の歌は、実に真っ直ぐで一途な愛なのです。

それがいまどきの解説書ときたら、右近のこの歌は、「約束を破って私を捨てた貴方には、きっと神罰がくだって、貴方は命を失うことになるでしょう」と女の怨念を詠んだ歌だと解説しています。
どの本を見ても、です。
「まさか」と思われるかもしれませんが、どの本も、です。
嘘だと思うなら、右近の歌は、百人一首の38番歌です。
本屋さんか図書館に行ったら百人一首の本がたくさん置いてありますから、全部調べてみてください。
大なり小なり、右近の女の恨み節だというようなことが書かれています。

けれど、上にある流れというか物語を読んだら、もう、そんな解釈はできなくなるものと思います。
右近の悲しい恋の物語なのです。

そして、いま、これをお読みの方の多くが、右近とまではいかなくても、若いころの結ばれなかった恋や、悲しい別れの思い出をお持ちであろうと思います。
そんな恋の記憶のある方なら、このときの右近の気持ちも、敦忠の仕事一途に打ち込んだ気持ちも、きっとわかっていただけると思うのです。

昔から、「人は、本当に好きな人とは一緒になれない」といいます。
それもまた、神々が人に与えた試練なのかもしれません。


それにしても、百人一首って、本当にすごいです。
一首一首の歌を、よく知れば知るほど、もう夢中になります。
そこには、日本人の琴線に触れる何かがあります。