■かつての「半導体大国ニッポン」が凋落した本当の理由。 | タマちゃんの暇つぶし

タマちゃんの暇つぶし

直ぐに消されるので、メインはこちらです→ http://1tamachan.blog31.fc2.com/ 

マネーボイス:かつての「半導体大国ニッポン」が凋落した本当の理由。罪深き「日米半導体協定」での政府の失態とは?=辻野晃一郎氏2024年7月2日より転載します。
 
貼り付け開始、

https://www.mag2.com/p/money/1464457
 

かつて「半導体は産業のコメ」と言われたほど、半導体王国だったニッポン。いまでこそ半導体といえば世界の戦略物資でもありますが、なぜ日本は栄光の時代から凋落してしまったのでしょうか。(『 「グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中」~時代の本質を知る力を身につけよう~ 』辻野晃一郎)

【関連】ニッポンよ、邪悪になるな。Google社員の働き方に仕組みやルールよりも大事なことが隠されている=辻野晃一郎

※本記事は、『「グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中」~時代の本質を知る力を身につけよう~』のバックナンバー2023年9月8日号の一部抜粋です。ご興味を持たれた方はこの機会にご購読ください。

プロフィール:辻野晃一郎(つじの こういちろう)
福岡県生まれ新潟県育ち。84年に慶応義塾大学大学院工学研究科を修了しソニーに入社。88年にカリフォルニア工科大学大学院電気工学科を修了。VAIO、デジタルTV、ホームビデオ、パーソナルオーディオ等の事業責任者やカンパニープレジデントを歴任した後、2006年3月にソニーを退社。翌年、グーグルに入社し、グーグル日本法人代表取締役社長を務める。2010年4月にグーグルを退社しアレックス株式会社を創業。現在、同社代表取締役社長。また、2022年6月よりSMBC日興証券社外取締役。著書『グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた』(2010年新潮社、2013年新潮文庫)など多数執筆。

半導体との関わりはソニーから始まった

私がソニーに入社したのは、最初からソニーが第一希望ではあったものの、大学の同じ研究室出身の先輩がソニーの半導体部門に何人かいて、リクルーターとしてソニーに誘ってくれたのがきっかけにもなりました。

1984年にソニーに入社した時、当時厚木にあった「情報処理研究所」に配属されました。当時の厚木は、ソニーの先端技術開発の拠点としての位置付けで、半導体事業の拠点も厚木にありました。厚木に配属されてからの新入社員歓迎式典では、当時副社長で、今でいうCTOとして厚木のトップでもあった森園正彦さんや、専務取締役で半導体事業本部長であった河野文男さんがウェルカムスピーチをしてくれました(共に故人)。

河野さんは、「是非自分のオフィスに遊びに来てください」と厚木に配属された新入社員全員に呼び掛けてスピーチを締めくくりました。社交辞令でもあるでしょうし、新入社員の分際で普通は行かないのかもしれませんが、私はその言葉を真に受けて、厚かましくも当日か翌日に河野さんのオフィスをノーアポで訪ねました。

すると、タイミング良く在席していた河野さんは大歓迎してくれて、シリコンウェハーを片手にソニーの半導体事業について自ら詳しく説明してくれました。それ以来、河野さんには折りにつけてかわいがっていただきました。また、後に本社のR&D戦略部門に在籍していた時には、やはり半導体事業本部長を務めた高橋昌宏さん(故人)が、専務取締役として本社R&D部門のトップになられて大変お世話になった思い出があります。

米国留学で本格的にLSIの設計を学ぶ

入社2年目に、ソニーの海外留学制度に応募して米国の大学に留学したのですが、留学先では半導体の設計を本格的に学びたいと考えていました。そこで、世界で初めて半導体設計を大学のカリキュラムに導入して有名だったカリフォルニア工科大学(Caltech)の大学院修士課程を第一希望に選びました。ノーベル賞受賞者も多数輩出している名門で、よく東のMITと並び称されますが、Caltechには、『Introduction to VLSI systems』という、LSI設計のバイブルとも呼ばれた教科書を書いたカーバー・ミードという高名な教授がいて、彼の授業や指導を受けたいと思ったからです。

またCaltechは、トランジスタを発明してノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・ショックレーや、インテルを創業し「ムーアの法則」でも有名な、ゴードン・ムーアなども輩出しています。北カリフォルニア、サンフランシスコの南側一帯をシリコンバレーというのは周知の通りですが、南カリフォルニアのパサディナに位置するCaltechも、半導体を始め、テック産業の興隆を牽引した大学の一つです。近くには、もともとCaltechの研究機関として発足し、今はNASAの研究機関となっているジェット推進研究所(JPL、Jet Propulsion Laboratory)があります。

ただ、真偽のほどはわかりませんが、カーバー・ミードは大の日本人嫌いという噂があり、受け入れてもらえるかヒヤヒヤしていたのですが、運よく修士課程への合格通知をもらうことができました。当時のCaltechには、『ファインマン物理学(The Feynman Lectures on Physics)』(岩波書店)や『ご冗談でしょう、ファインマンさん(Surely You’re Joking, Mr. Feynman!)』(岩波現代文庫)でも有名なノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマンを始め、錚々たる学者が集まっていました。

しかし、幸か不幸か、私が留学した年は、カーバー・ミードはサバティカルを取っていて不在で、その一番弟子だったチャールズ・セイツという教授がVLSI Designの授業を担当していました。

VLSI Designの授業は実習主体の苛酷なものだったのですが、私が最も驚いたのは、当時すでに MOSIS(MOS Implementation Service) という、学生が設計したLSIの実チップを、半導体メーカーが実際に試作して納品してくれる、という仕組みが整っていたことです。しかも、設計データを、当時のSunワークステーション上で作成して、それを指定された中間フォーマットに落とした上で、ネットワーク経由でMOSISの本部に送付すると、1ヵ月後位に試作されたチップが送られてくる、という実に使い勝手の良いものでした。

本部は近くの南カリフォルニア大学にあったようですが、Caltechでもこの仕組みが利用できるようになっていました。私も実際にこの仕組みを使って、実習で設計した回路の実チップを試作して入手するという貴重な経験を積むことができたのですが、教育環境における圧倒的な彼我の差(日米格差)を感じたものです。

留学からソニーに戻ってからは、この経験で感じた彼我の差を何とかしようと、「設計改革プロジェクト」という部門横断的なプロジェクトを立ち上げ、そのプロジェクトを通じて、デジタル回路設計やLSI設計をVerilogやVHDLなどのハードウェア記述言語で行なう取り組みなどに尽力しました。

Next: ソニーの誤り?日本半導体の凋落へ

サンディスクとの邂逅

それからしばらく後、私が本社R&D戦略部門の若手スタッフとして在籍していた頃には、こんなこともありました。

私は、将来的にハードディスクはシリコンディスクに置き換わるだろうと予測し、フラッシュメモリーの将来性に着目していたのですが、サンディスクという起業したばかりのベンチャーを見つけました。そしてこのサンディスクのことをいろいろと調べ上げて、同社への出資または買収を半導体事業本部に提案しました。サンディスクの創業者は、エリ・ハラリという気難しい元インテルのエンジニアでしたが、彼にも何度も会って、一緒にセコイア・キャピタルなどシリコンバレーのVCを回ったこともあります。

しかし残念ながら、当時のソニー半導体事業本部はなかなか煮え切らず、結局この話は流れてしまいました。その後、サンディスクは大成功してNASDAQに上場し、東芝とも提携しましたが、今はウエスタンデジタルの傘下に入っています。もちろん、エリ・ハラリはシリコンバレーで最も成功した起業家の一人になりました。

あの時に、ソニーがもしサンディスクに出資するなり買収するなりしていたら、その後のソニーの歴史も大きく変わっていたでしょう。また個人的にも、もしあの時にソニーを辞めてサンディスクに転職していたら、また全然違う人生を歩んでいたに違いありません(笑)。

日本半導体の凋落

かつて日本では、「半導体は産業のコメ」と言われました。半導体は世界の戦略物資であり、現在進行形の米中覇権争いの中でも、米国が真っ先に中国への輸出や技術流出に対するさまざまな規制を強めた分野です。これは、かつての日本に対する米国の態度を彷彿とさせるものでもあり「日米半導体摩擦」という言葉が使われていた時代を思い出します。

日本はもともと半導体王国で、特にDRAMやSRAM等の半導体メモリーが強かったのですが、家電や自動車と並び半導体は稼ぎ頭の産業でした。1980年代には、世界の半導体における日本のシェアはピークで50%を超えており、日本電気(NEC)、東芝、日立、富士通、三菱電機、松下電子の6社が世界のトップ10に入っていました(下図参照)。

ところが、2019年には日本のシェアは10%前後に落ち込み、トップ10には東芝から分社化したNAND型フラッシュメモリーのキオクシア1社が残るのみとなりました。それが、2022年になると、下図にはありませんが、そのキオクシアも脱落して、今やトップ10に日本企業は1社も残っていません。

1999年にNECと日立のDRAM部門を統合して発足し、後に三菱電機のDRAM部門が加わったエルピーダ・メモリも、一時持ち直したものの、結局2012年に破綻して米マイクロンの傘下に入りました。今や、大手半導体専業メーカーとしては、三菱電機、日立、NECの半導体部門を統合して産業革新機構が支援したルネサス・エレクトロニクスが、何とか息を吹き返してかろうじて孤軍奮闘で踏ん張っている状態です。

 

出典:経済産業省「第1回半導体・デジタル産業戦略検討会議」資料(2021年3月24日)

出典:経済産業省「第1回半導体・デジタル産業戦略検討会議」資料(2021年3月24日)

 

Next: 1990年代に遅れをとり始める日本。半導体産業が衰退した理由とは

罪深い日米半導体協定

日本の半導体産業の衰退には、大きく分けて、「政治的な理由」によるものと「技術的な理由(企業体質や企業戦略にまつわるもの)」によるものの2つがあるように思います。

まず、1つ目の政治的な理由については、1986年に結ばれた「日米半導体協定」が大きなきっかけになったことは間違いないでしょう。日米半導体協定には、第一次(1986年~1991年)と第二次(1991年~1996年)があり、合計10年間にわたって効力がありました。

背景としては、戦後、日増しに産業競争力を高めて米国の基幹産業を脅かす存在になった日本に脅威を感じた米国が、1988年、俗に「スーパー301条」と呼ばれる通商法第301条の強化版を制定して、外国製品(特に日本製品)に対する厳しい制裁を科すようになる流れがあります。

半導体に関しては、主にDRAMにおいて日本勢が圧倒的な力を持つに至り、米国でダンピング訴訟などが起こされたことをきっかけに、表向きは半導体を巡る日米貿易摩擦解消のためという名目で日米半導体協定が結ばれました。しかし実際は、スーパー301条による制裁の発動をチラつかせられながら、日本がなるべく米国製半導体を購入するように仕向けられたものです。

特に、第二次協定では、「日本の半導体市場における外国製のシェアを20%以上にする」という数値目標が設定され、これが日本の半導体産業に大きなダメージを与えたとされます。数値目標の設定を許したのは、交渉段階における日本側の明らかな失態でしょう。また、安全保障上の理由から、米国市場における日本製半導体の締め出しも画策されました。

その結果、1990年代に入ってからは、日本製半導体のシェアは大きく落ち込み、技術力でも米国に後れをとるようになっていきました。企業側としても、市場が制限されて思い切った投資が出来なくなったからです。そしてその間隙を衝かれて、米国からの制約がない韓国のサムソン電子などの追い上げを許すことになってしまいました。

−−日本政府(経産省)の失策や、2つ目の「技術的(企業体質や企業戦略にまつわるもの)な理由」について、ぜひバックナンバーからご購読ください。

この記事の著者・辻野晃一郎さんのメルマガ



※本記事は、辻野晃一郎氏のメルマガ『「グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中」~時代の本質を知る力を身につけよう~』2023年9月8日号の一部抜粋です。ご興味を持たれた方はぜひこの機会に購読を。

 
貼り付け終わり、