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ジャニーズ、宝塚、吉本興業と立て続けの醜聞報道に揺れる芸能界。そのトップに君臨してきたダウンタウンの松本人志は、NSC吉本総合芸能学院の1期生、つまり「師匠」を持たないままスターダムにのし上がった新しいタイプのお笑い芸人でした。しがらみのなさから、横山やすしなどお笑い界の重鎮を徹底的にコケにした若き日の松本。それは当時としては「大変に新鮮な笑い」でしたが、松本はこの頃すでに、現在の性加害疑惑スキャンダルに繋がる落とし穴にはまっていたのかもしれません。メルマガ『藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~』の著者で、京都大学大学院教授の藤井聡さんが詳しく解説します。
(この記事はメルマガ『藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~』2024年1月30日配信分の抜粋です)
裁判でも勝ち目なし、ダウンタウン松本の窮地
松本人志さんの性加害スキャンダルの件は、文春が三週にわたって様々な証人を登場させ、ついに今週は実名、顔出しで性加害を訴える記事まで掲載されました。
松本さんは事実無根である、という発言は撤回しておらず、かつ、数億円の損害賠償を請求する裁判を起こすと宣言しています。
しかし、大方のミカタは、松本氏の戦いは相当に厳しいだろうというもの。なぜなら、これだけ多くの証人が「MeToo」で名乗りを上げている案件で、裁判長が、「この証人が全て嘘をついている」と判断する可能性は限りなくゼロに近いからです。
もちろん、松本さんが訴える記事(最初の記事)の「一部」について何らかの事実誤認があり、それについて松本さんの名誉毀損が部分的に認められる可能性はもちろん存在しますが、記事の内容のあらかたの部分が、裁判所において一定の事実性があるものとして認定される可能性は極めて高いと考えざるを得ません。
いずれにしても、部屋飲みがあり、かつ、そこでの性行為があったこと自体は後輩芸人達も認める発言がでてきており、しかも、松本氏自身も、同様の認識を示唆するツイートをされていることですから、「記事内容が完全に事実無根」である可能性は既にゼロといって差し支え有りません。
後、争点となり得るのは、「合意の有無」ということですが、松本氏が社会的な強者であるという前提から考えると、松本氏の「合意があった」という主張が認められる可能性は、その点において限りなくゼロであると思われます。
いずれにせよ、記事によれば、20年近く前からこうした不特定多数と性的な関係を後輩も同席/援助する恰好で松本氏が繰り返しているとのこと。
「師匠」がいない松本人志の笑いに人々が熱狂した理由
これを見た時に思い出したのが、かつてまっちゃんが若い頃、横山やすしや西川きよし、三枝、難波先生等のお笑い界の重鎮達を徹底的にこけにしたコント。
まっちゃんが登場する迄は、上方(大阪、京都)のお笑いは、師匠がいて、その師匠が弟子を育てる、というもの。いわば、今の落語の世界と同様の師匠と弟子システムで、芸人が育てられていたのですが、まっちゃんは、吉本興業が立ち上げた、お笑いの専門学校NSCの第一期の卒業生として、いわば「師匠」がいない初めてのお笑い芸人となったのです。
だからこそ、まっちゃんは師匠筋の重鎮お笑い芸人達を徹底的にコケにして笑いをとっていくことができたのです。
当時の僕にとって(というよりも、今からみても、ですがw)、それはそれは大変に新鮮な笑いで、ひぃひぃいいながら滅茶苦茶笑っていました。
師匠筋をコケにするなんて笑いは、当時のお笑い界では絶対に御法度だったからです。我々関西社会では、大御所のお笑い芸人とは大きな権力者で、弄っては絶対にいけないものだったからです。
ぜったいやっちゃイカンことをやっている――その途轍もない「禁断の笑い」が、鳴り物入りの古い漫才や松竹新喜劇の人情話にウンザリしていた当時の関西の若者達の絶大な人気を集めたのです。
「コケにされること」から逃げた松本の誤算
そんなまっちゃんの大ファンだった当時の僕は、この笑いが永遠に続くことを心から願っていましたが(特に、「一人ごっつ」に至っては、それはもはや、求道者による神聖なお笑い空間だと認識していました)、これがそんなに長く続くはずがない、とも認識していました。
なぜなら、権威を破壊する事を通して獲得したお笑い芸人達は、今度はかならず、未来の若者達に「コケにされる」側に回らねばならぬ宿命を負っている筈だから、です。
事実、ダウンタウンのごっつええ感じのコントで、50歳を超えたまっちゃんと浜ちゃんが、クソつまらない漫才をやる、というコントがあり、それを見て大笑いをしていましたが、きっとそれは遅かれ早かれ、そうなるだろうと認識していました。
しかし――松本人志は、コケにされる権威になる事を回避し、業界の中でトップとして、誰からもコケにされることのない絶対王者として君臨し続ける道を選び続けたのです。
そこに松本人志の大きな間違いがあったのだと――思います。
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松本人志の笑いは「失敗」に終わった
だから僕はその様子が見え始めた10年、20年前くらいから、松本人志を見ても、かつての様に面白いとは全く思えなくなっていきました。
もちろん、年末のガキ使も、水ダウも、僕は大ファンでしたが、別に松本人志それ自身に対するファンなのでは無く、その番組そのものに対するファンになっていたわけです。
そして、松本人志その人に対しては、むしろ風体に対して嫌悪の念を少しずつ抱くようになっていきました。何やら不快な気持ちが、否が応でもでてきてしまっていたのです。
これは後出しじゃんけんでも何でも無く、僕の身の回りの人ならば、そういう印象を持っていたことを知っている筈、です。
今から思えば、僕がそういう風にまっちゃんを見るようになり始めた時期と、文春が報道している性加害行動を取るようになった時期とが重なっているようにも思えます。
誠に残念です。
やはり、松本の笑いは、失敗に終わったのです。
セックスピストルズのシドや、尾崎豊の様に、若い一瞬においてだけ花開いた、長続きすることの無い、青春のはしかのようなお笑いだったのです。
無論、セックスピストルズも尾崎豊も「大成功」を納めました。
しかしその大成功は、若くしてこの世を去ったことでかろうじて保たれたものだったと言えるのでしょう。
松本人志のあのごっつええ感じ、一人ごっつの大成功は、永遠に消えて無くなることはあり得ませんが、人物としての松本人志は、神格化されることはもはや、ありえないでしょう。
誠に残念です。
上岡龍太郎の金言と「頭が上がらない師匠」の効用
例えば上岡龍太郎は生前、そもそも芸人という存在は、ヤクザと同じ、世間様からはみ出た人間であって、まともな暮らしも当たり前の筋も通せない人間の集団だと何度も力説していたことがあります。
筆者は上岡龍太郎が力説していたこの説がどの程度正しいのかを評価する情報を持ち合わせては居ませんが、おそらくはこの説は相撲やプロレスの荒くれ者の世界にも当てはめられ得るものでしょう。
だからこそ、任侠の世界も相撲の世界もプロレスの世界も、強烈な縦社会構造があり、先輩、師匠の言うことは絶対で、白を黒、黒を白といわねばならない鉄の掟があったのです。そしてそれと同じ構図が芸人の世界もあったのです。その片鱗が今、落語の世界にも残存していますが、漫才の世界もそうだったのです。
そうでもしなければ、そもそもが世間様からはみ出た人達なのだから、とんでもない悪事を働いてしまいかねない…そういう社会学的構造が、ヤクザや芸人、相撲の世界にはあったのでしょう。
失われた笑いの「秩序」を取り戻せるか
ところが、NSC出身で、師匠不在のまま初めてスターの座にまで駆け上った漫才師・松本人志は、その社会学的構造を、彼自身のネタを通して、そして彼自身の存在を通して完全に破壊してしまったのです。
そしてその挙げ句の果ての最終帰結が、この文春スキャンダルなのだ――とすれば、まさに上岡龍太郎が主張していた話を、裏側から実証して見せたのだと言うことができるでしょう。
あれだけの破壊行為は、若いからこそ笑えたのです。
今のあの茶髪で筋肉ムキムキな初老の松本人志を見ても、何やら不快に感じてしまうことすらあり、かつてのように爆発的に笑い転げることはできなくなってしまっているのです。
我々は失われた「笑い」における秩序を、取り戻さねばなりません。
笑いは社会秩序を破壊する強力な暴力としても機能するものですが、ほころび始めた社会の秩序を回復するための強力な治療薬としても強力な機能を発揮する筈なのですから。
(この記事はメルマガ『藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論』2024年1月30号の抜粋です。ご興味をお持ちの方はこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ)
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