MAG2 NEWS:日本人が知らない「福岡空港」の凄い軍事力。極東有事で“敷地内の米軍”航空機動軍団は何をどう作戦するか?2024.02.01より転載します。
貼り付け開始、
https://www.mag2.com/p/news/592055
旧日本陸軍が1944年に建設し、それを戦後に米軍が接収したという歴史をもつ福岡空港。朝鮮戦争では福岡市民の頭上を戦闘機が飛び交いましたが、今や日本国民の多くが当時を知らない世代になりました。「私のまわりの30代~40代後半の福岡県民も、誰もその事実を知らなかった」と驚きを隠せないのは、小林よしのり氏主宰「ゴー宣道場」の寄稿者で作家の泉美木蘭氏。我が国の国防を考えるにあたり、決して目を逸らしてはならない福岡空港の現実をレポートしています。(メルマガ『小林よしのりライジング』より)
コンパクトシティ福岡は「国防の最前線」だった
さて、今回は福岡空港の話。
空港というものは、たいてい人里離れた広大な土地を買収したり、海の上に埋め立て地を作ったりして建設されるものだが、福岡空港は、博多駅から5分、中心地である天神駅から10分という超都市型空港だ。
はじめて羽田空港から福岡空港に降り立ったときは、中心部への近さに驚き、なんて便利な街なんだと思った。 だが、便利と引き換えに、周辺に住んでいる人は、1~2分おきに離発着の騒音を聞き続けている。
この騒音対策のために、福岡空港には「門限」がある。 原則、夜10時までに着陸できない飛行機は、Uターンして元の空港に帰るか、別の空港を探さなければならないのだ。
特に、2023年は「門限Uターン」のニュースが多く、マニラから飛んできた飛行機が、そのままマニラへ引き返すというわけのわからない珍事まで起きた。
コロナ禍で、空港はどこもスタッフを減らして運営してきたが、昨年は急激に旅客数が戻り始めたために対応が間に合わなくなり、保安検査場に大行列ができるなど各地で問題を抱えてしまった。
飛行機の発着にも影響を及ぼしており、福岡の場合は、上空で着陸許可を待つ飛行機がぞろぞろ旋回するという「着陸渋滞」が頻発したり、地上で到着機が混雑してなかなか搭乗口につけない問題も増えたりしているらしい。
福岡県民も知らない福岡空港の歴史
福岡空港は、1944年2月、戦争のさなかに旧陸軍の飛行場として、急遽建設されることになった。
1945年5月に「席田飛行場」として完成するが、8月には敗戦、米軍に接収されて「米軍板付基地」となり、周辺の山間部も米軍に接収されて、射撃場や弾薬庫が作られた。
以来、米軍が1957年ごろまで空港周辺の土地を5回に渡って接収していき、現在の福岡空港とほぼ同じ大きさに拡張された。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、板付基地は偵察や出撃の拠点となり、昼夜を問わず、多くの米軍機が飛び立つことになる。「福岡市民の頭上を1時間に50機の戦闘機が飛んだ」という話も残っている。
ところが、私が当初、福岡の地元紹介を調べはじめたときは、朝鮮戦争当時について「朝鮮戦争特需と言われる好景気になり、製造業や石炭産業が伸びた」ということは紹介されていても、現在の福岡空港が米軍基地であり、戦闘機がバンバン飛んでいたという事実は見かけなかった。
たまたま、ネットで見つけて読んだ空港の歴史にそのことが書かれていて、びっくりしたのだが、私のまわりの30代~40代後半の福岡県民も、誰もその事実を知らなかった。
現在の福岡空港国際線ターミナルから見える、AMC AIR TERMINAL(米航空機動軍団)の看板を掲げた米軍板付基地の施設。撮影:泉美木蘭氏「警備員にじろじろ見られてあまり近づけなかった」
九州大学電算センターファントム墜落事故(1968年)
米軍基地だったことを知らないのだから、米軍機が九州大学に墜落したことも、もちろん知らない。
1968年6月2日夜10時45分、ベトナム戦争の激化に伴って、重要拠点となっていた板付基地から発進した米軍機が、福岡市東区にあった九州大学キャンパス内の「大型計算機センター」に激突。 6階建ての建物の5階部分に頭から突っ込んで、炎上した。
墜落したのは日曜日の夜で、建物は建設中でもあったため、人身被害はなかったが、墜落1時間半後の深夜1時には、事故現場に多数の学生が集まっていたという。
この時、米兵たちがカービン銃を手に、いきなり無断で構内に踏み入ってきたために、学生たちは激昂。 軍用車を取り囲んで押し問答になった。
次ページ:福岡空港の米軍基地返還運動は「現在も続いている」
九州大学と福岡市民による米軍基地返還運動
そのため、九大の水野高明総長が、米兵の司令官に対して、大学に陳謝に来るよう約束させ、学生たちに米兵を解放するよう説得したが、学生たちは応じず、機動隊が実力で排除してようやく米兵が解放されるという一幕があった。
構内に入れなくなった米軍は、この日、九大に対して、早急に事故機を引き渡すよう求めてきたが、水野総長は、墜落現場で行われていた議論の場におもむき、板付基地の撤退を求める声明文を読み上げた。
同日、在日米軍の司令官らが陳謝しにきたが、水野総長は、基地撤退を読み上げた声明文を手渡し、当面の離着陸コースを変更しろと要求。
米軍機墜落に憤怒していた九大学生たちと福岡市民たちも燃え上がり、板付基地撤去・返還運動へと発展した。
実は、九大への墜落だけでなく、板付基地周辺では米軍機のトラブルが多発しており、約20年間で109件の事故が発生、民間人20人が犠牲になっていたのだ。
1971年には当時のニクソン大統領の軍縮政策と、福岡の市民運動とが相まって基地の返還が決定。 翌72年3月には板付基地は日本に返還され、「福岡空港」となった。
福岡県にとってはかなり大きな出来事だが、そもそも米軍基地だったことが知られていないので、当時学生運動に参加していた「左翼」と呼ばれる世代の人しか詳しく記憶する人はいないようだ。
調べていて驚いたのは、私が読んだ板付基地に関する別の資料に「この返還運動は現在も続いている」と記載されていたことだった。
現在も?
不思議に思ってさらに調べると、空港の施設内に現在も米軍の専用地が残されており、福岡県と福岡市は今も返還を求めているということを知った。
福岡空港に今も存在する「米航空機動軍団」
驚いて空港へ行ってみると、福岡空港の国際線ターミナルの出入り口から見える位置に、本当に「AMC AIR TERMINAL」(米航空機動軍団)という看板を掲げた米軍の建物があった。
「日米地位協定」により、福岡空港の滑走路と誘導路、駐機場は、米軍と共用することと指定されていたのだ。
2021年は3日に1回のペース、2022年は5日に1回のペースで米軍機が飛来していたという。
つまり、板付基地は、正確な意味で日本に「返還」されたのではなかった。建物を縮小して、いつでも全面的に使用できるように、ひっそりと運用されていただけなのだ。
過去には、朝鮮半島有事を想定して、在韓米軍の家族を福岡空港に輸送する訓練も行われている。
つまり、福岡空港は、朝鮮半島有事における重要拠点として認識されており、米軍としては手放すわけにいかないと考えてきたということだ。
だが、この件について意識している福岡県民があまりいないという状況で、しかも、2021年には、福岡空港の滑走路増設工事に伴って、米軍専用地も移設することになり、その移設費用30億円をすべて日本の税金で負担、うち10億円は福岡県と福岡市が負担している。
福岡県と福岡市は、基地返還を求めているはずが、米軍基地移設のためのカネを捻出してしまうという壮大な矛盾を抱えているのだ。
福岡空港はアメリカ空軍の戦略に組み込まれている
さらに調べると、米空軍の基本原則をまとめた「AGILE COMBAT EMPLOYMENT」(迅速機敏な戦力展開)という戦略概念があることを知った。
この文書では、世界中に戦力を展開していた米空軍が、冷戦終結以来、その拠点を大幅に縮小してきた一方で、敵軍の情報・偵察・全領域の長距離射撃技術が進歩しているという事実に触れ、「ソビエトが冷戦時代の欧州の基地を危険にさらしたように、新しい兵器システムは、以前は聖域と考えられていた空軍基地を危険にさらしている」と書いている。
さらに、米国の財政的な問題で恒久的な空軍基地の設置は制限されているため、いかに敵の照準を難しくして、ジレンマをもたらすかが重要だとし、さまざまな機動方式や戦闘配置、物流について言及したあと、基地を分散することについて述べ、次のような事前の開発が必要だとしている――(メルマガ『小林よしのりライジング』2024年1月30日号より一部抜粋・敬称略。この記事の続きや、小林よしのり氏のゴーマニズム宣言・第522回「日本のサブカルが強い理由」、読者Q&Aコーナーなどメルマガ全文はご登録の上お楽しみください)
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