■燕雲台 - The Legend of Empress:契丹蕭皇后の鬼道と沖縄のノロ | タマちゃんの暇つぶし

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燕雲台 - The Legend of Empress:契丹蕭皇后の鬼道と沖縄のノロ <newsNueq-3481>2021/10/28 14:50より転載します。

貼り付け開始、

小前 亮:歴史人
「 契丹 」と「 遼 」の歴史
 ─ 大ヒット中国ドラマの題材となった国の魅力 ─
 ~ 中国初の征服王朝「 遼 」という国

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 https://www.rekishijin.com/15097
 2021.10.27

 < 抜粋・編集 >

 中国北方で暮らしていた遊牧民・契丹族が樹立させた、
 中国初の征服王朝「 遼 」という国、

 ※ 中国「 初の 」征服王朝ではない。
   夏・殷・周を始め、秦から唐に至るまですべて
   南蛮・北狄・西戎による「 征服王朝 」である。
   その後の、宋はなんとか漢王朝と言えなくもないが、
   そのルーツはやはり北狄・西戎系だ。
   歴代支那王朝の中で明確に漢民族の王朝と言えるのは、
   明と中国共産党のみ!
   小前は、この大前提自体から間違っている。

 伝説の皇后であり、実在した睿智蕭皇后という人物を主人公に描いた
 本格歴史エンターテイメント「 燕雲台 - The Legend of Empress 」は、
 中国国内でTV視聴率&配信ランキング1位となった。
 その睿智蕭皇后という人物に本記事では迫りたい。

  「 燕雲台 」
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 契丹(キタイ)人は、モンゴル高原に住んでいた騎馬遊牧民。

 モンゴル高原の遊牧民は、家畜を育てながら
 夏営地と冬営地の間を移動して暮らしますが、自然を相手にしたその生活は過酷です。
 とくに冬の寒さが厳しく、寒波の襲来で家畜が全滅、
 食料がなくなることも珍しくありません。

 ※ < newsNueq-1138:5000万頭死亡:モンゴルの極寒「 ゾド 」> 2018/05/11

 野火や野生動物も脅威になります。
 また、城壁に守られてはいないので、外敵に襲われる危険も常にあります。
 こうした環境を背景に、遊牧民は尚武と団結の気風をはぐくみました。

 強力な指導者が現れると、遊牧民はそのもとにまとまり、外征に打って出ます。
 遊牧民の指導者に求められる役割は、軍事行動によって多くの戦利品を獲得し、
 それを公正に分配することです。
 指導者がこの役割を果たせていれば、その器量と軍事的才能にあわせて、
 集団はどんどん大きくなっていきます。

 鉄砲が発明されるまで、弓矢は最強の遠距離武器でした。
 内燃機関が発明されるまで、馬は最速の乗り物でした。
 したがって、このふたつを自在に操る騎馬遊牧民は、最強の戦闘集団でした。
 彼らが団結して向かってきたら、定住民は抗うのが困難です。

 遊牧集団の戦闘目的として、まず交易路の保護があげられます。
 遊牧民にとっても商業は重要です。
 毛皮や皮革などを売り、絹織物や穀物などを買うのですが、
 その交易の舞台となるオアシス都市や交易路を支配下に入れて、
 商業活動を活発化させ、安全保障の対価を得ていました。

 ※ 騎馬遊牧民は、草原の海運業者とも言える。
   蛋民は海の魚を食べるが、遊牧民は草原の羊を食べる。


 略奪も目的のひとつです。
 現代の価値観ではもちろん許されませんが、
 遊牧集団の略奪は生きるための経済活動でした。
 対象は主に家畜や動産ですが、より重要なのは人です。
 ものづくりの技能を持った職人などを本拠地に移住させ、手工業に従事させていました。

  三彩牡丹文碗(遼三彩)
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  契丹族が打ち立てた遼は高い文化をもち、独自の発展をさせた。
  こちらも遼独特の紋様である紋様が刻まれ、質の高い陶磁である。
  京都国立博物館蔵


 短い間に勢力を拡大させる騎馬遊牧集団ですが、たいてい長続きはしません。
 主な原因は相続制度です。
 成人すると家畜を分け与えられて独立していく分割相続、
 そして実力と声望のある者が集団の長になるという慣習が、
 領土の細分化と内乱を呼んで、君主の地位の安定的な継承をさまたげるのです。
 逆に言えば、これらの問題を解消すれば、国はある程度存続します。

 こうした騎馬遊牧集団ですが、中華王朝と抗争を繰り広げたものとしては、
 まず匈奴、ついで鮮卑、柔然、突厥、ウイグルなどがあげられます。
 その後にモンゴル高原の覇者となったのが契丹です。

 八世紀から九世紀にかけて、ユーラシア東部では、三つの大国
 すなわち唐、ウイグル、吐蕃が鼎立していました
 ( 中国史だけ見ると唐が唯一の超大国ですが、
  近年は視野を広くしてとらえる流れになっていま す)。

  唐・ウイグル・吐蕃の鼎立地図
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 ところが、九世紀の中頃には三大国はいずれも弱体化し、戦乱の時代が到来します。

 ここで、契丹に英雄・耶律阿保機が登場しました。
 耶律阿保機は契丹の有力者の家系に生まれ、ひとつの集団をひきいていました。
 当時の契丹は、八つの有力な集団に分かれており、
 全体の指導者は話し合いで選ばれて、交代制で務めていました。
 耶律阿保機はこの体制を打ち破り、可汗(遊牧民の君主)の位につきます。
 西暦907年のことです。
 西暦916年には中国風の皇帝の称号も名乗りました。

 ※ 後のモンゴル帝国の「 モンゴル八旗 」はこの契丹の8部族に倣ったもの。
   チンギス・ハーンの宰相:耶律楚材が、耶律阿保機の後裔だからだ。
   滅法強いチンギス軍団の戦法は、義経軍団( 奥州藤原軍団 )と同じ。
   漫画「 ゴールデンカムイ 」のストーリーを追ってると
   面白いことがいろいろ見えてくる♪


 華北に目を向けると、唐の末期から、
 節度使から独立したテュルク系の将軍たちが割拠して、混乱の最中にありました。
 五代と呼ばれる時代で、皇帝を称した者もいますが、
 領土は狭く、政治体制も整っておらず、
 武装集団が民を抑圧しながら抗争を繰り返していました。
 耶律阿保機は、彼らとの争いを有利に進めて、力を蓄えていきます。

 耶律阿保機は単に戦に強いだけの人物ではありません。
 国造りの意思と能力を持っていました。
 鍵となったのは、定住民の活用です。
 当時、華北の戦乱を避けて契丹に移住した漢人が少なくありませんでした。
 略奪によって連れてこられた漢人もいました。
 彼らをモンゴル高原でも東部のほうの農耕が可能な地域に住まわせ、
 経済基盤を強化するとともに、行政に利用したのです。

 契丹が定住化、漢化したわけではありません。
 遊牧民は遊牧民のままです。
 国として、遊牧と農耕のハイブリッドで、発展していく道を選んだのです。
 ここに契丹の隆盛の鍵がありました。

  遼中京遺址・大明塔
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  遼は北方仏教の発展にも大きな影響を与えた国であり、
  現在でも遼が残した仏塔や仏教遺跡が多くみられる。


 耶律阿保機の死後、帝位は次男の耶律堯骨(太宗)が継ぎました。
 この相続のとき、乱れそうになる国を支えたのが、
 女傑として名高い述律皇后ですが、これは次回に詳述します。
 二代目の太宗は、華北の後唐の後継争いに介入し、
 石敬唐(王偏に唐)の後晋建国を援助した見返りに、燕雲十六州を得ます。
 万里の長城の内側に領土を獲得したのです。

  燕雲十六州と、五代・遼の地図
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  ※ 唐の将軍が皇帝に反旗を翻し、契丹に軍事援助を求めた。
    その契丹軍の河北攻撃で唐は滅亡。

 その後、属国となっていた後晋が裏切ったため、
 太宗は南進して後晋を滅ぼし、華北を支配下に入れます。
 遼という中国風の国号に改めたのはこのときです。
 それ以前は契丹で、以後も遼と契丹の国号はどちらも使われます。
 これは契丹の国が、遊牧と農耕、ふたつの顔を持っていたためです。

 契丹の華北支配は長くは続きませんでしたが、燕雲十六州の領有は保たれます。
 なお、中国史の地図で燕雲十六州を確認すると小さく見えますが、
 これはまさに氷山の一角です。
 後背に広大なモンゴル高原や東北部の平野を有する遼は大国でした。

 ※ 現在の北京( フビライが大都の前進基地として建造した新京 )は
   この燕の地にある。

 後に宋が中国を統一すると、二代目の趙匡義(太宗)が
 燕雲十六州の奪取を狙って遼に挑みます。
 しかし、両者の国力を考えると、これは無謀な試みでした。
 宋軍はあえなく完敗し、撤退します。

  宋代の勢力図
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 ただ、遼のほうは、皇帝の暗殺が続くなど国内が安定しておらず、
 宋を討つ余裕はありませんでした。
 余裕ができたのは、六代目の聖宗の治世です。
 聖宗は十二歳の若さで即位しています。
 権力争いが激しかった遼の朝廷が、幼帝のもとで安定したのは、
 摂政を務めた皇太后(睿智蕭皇后)の手腕によります。


  第5代:景宗と睿智蕭皇后( 蕭燕燕 )
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  「 燕雲台 」より


 睿智蕭皇后は五代目景宗の皇后で、聖宗の生母でした。
 歴代の皇后を出している名門一族の出身で、父は宰相に昇った人です。
 この父はあまり有能ではなかったようで、
 史書では政治面でも軍事面でも酷評されていますが、娘は違いました。
 皇后となってまもなく、父が暗殺されて後ろ盾を失いますが、朝廷で確固たる地位を築きます。

 皇太后となってからは、耶律休哥、耶律斜軫、韓徳譲といった文武の臣に補佐されて、
 政事に取り組みました。

 国内をまとめた睿智蕭皇后は、1004年、宋に対して大規模な軍事遠征を実行します。
 公称二十万ともいう遠征軍は、国内が盤石でないと組織できません。
 皇帝や宰相が次々と暗殺されるような状態から、
 そこまで体制を固め直した睿智蕭皇后と側近の政治力は、
 宋を統一王朝に育てた太宗と稀代の名宰相・趙普のコンビにも匹敵するでしょう。

  睿智蕭皇后と側近たち
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  「 燕雲台 」より

 この遠征は親征であり、
 睿智蕭皇后は息子の聖宗とともに、戦車に乗って指揮をとりました。
 その結果、契丹に有利な和約、セン淵の盟が結ばれます。
 宋は契丹に毎年絹や銀を贈り …… つまりお金を払って平和を買うことになりました。

 セン淵の盟は世界史の教科書では太字で記載される重要事項です。
 この歴史的事件の一方の当事者として、
 類まれな政治手腕を持つ女性がいたことは、もっと知られてよいのではないでしょうか。

 ※「 セン淵 」の「 セン 」は、さんずいに「 壇のつくり 」。


 と、云うことで、「 燕雲台 」の宣伝です。(^o^)ゞ


 燕雲台
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 https://kandera.jp/sp/enundai/


 WOWOWでは6月より順次放送、
 U-NEXTでは、11月より配信スタート。
 AmazonPrime はきっと、数年後でしょうね。(^o^)ゞ

 このサイトの最後の処で、初回分(45分)だけがタダで見れるようになってます♪


  < newsNueq-1681:本土と沖縄:異なる遺伝背景 >
  < newsNueq-2391:首里城は誰が燃やしたか?
       :キコエノ大君と沖縄琉球のそもそも学 >

で、「 キキタエ( キリコエ )」のことを書きました。

キキタエは、契丹のシャーマンであり、
このシャーマンは蕭一族が司った。

元々は、BC5世紀のインド:シスナーガ王朝が
ベトナム:文郎国( ← 赤鬼国 )を経て沖縄に移住。
更にその古代ナーガ族の一部は渤海から上陸して大扶餘に移住し、蕭一族の先祖となる。
大扶餘は、ウラルトゥ滅亡後、ユーラシア大陸を「 東遷 」してきた民族が
ベースになってつくられたエリア( 国? )。
そのウラルトゥ族に南方系シスナーガ族:蕭族が合流した。
この大扶餘のシャーマン宗教が「 鬼道 」である。
( 鬼道は、日本では卑弥呼、支那では武則天で有名 )
そのシャーマン一族の女が、契丹八部族の可汗の妻となるのがしきたりだった。

その契丹初代可汗:耶律阿保機に仕えた耶律羽之が渤海国等に残存する
史書を取りまとめて編纂したのが『 契丹北倭記 』。

 渤海国使が、平城京・平安京に何度も訪れているが、
 その際、通訳は不要だったと記録されている。
 同じ「 扶餘語 」を話していたから、方言程度の違いだったのだろう。
 『 契丹北倭記 』は、日露戦争が終わった1904年、
 日本陸軍経理将校:浜名寛祐が奉天(藩陽)郊外のラマ寺で見せられた古文書を
 を後に蔵から勝手に失敬して写し取り、翻訳したもの。
 そこに書かれいた漢書は、どうしても翻訳することが出来なかった。
 ※ 僕も最近は白文で漢文が読めるようになった♪
 ある日、冗談半分で日本語で読んでみたら、スラスラ読めた!
 つまり万葉漢字なのである。。。。。!
 義経軍団が、チンギス・ハーン軍団と一緒に戦えたのもこのため。


支那の史書は、次の王朝の史人(不比等)が前の王朝の歴史を
自分の王朝の都合良く書くのが習わしだが、
耶律羽之は、渤海等のドキュメンタリー・ドキュメントを
原文通りに収めた「 稀に見る正直な史書 」。

その第15章に、

 「 巫軻牟 …… 芝辣漫耶と曰う。神祖始めここに降る 」

とあるが、この「 芝辣漫耶(しらまや)」は首里のことである。
この神祖はベトナムにあった赤鬼国の逕陽君。


  ベトカラブログ
  上古時代~ベトナム建国神話までを学ぼう【 パワスポ探訪 】
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  https://ameblo.jp/kashi-vietnam/entry-12408439179.html
  2018-09-29 20:01:57


また、第15章には次のようにも書かれている。
( すべて「 渤海国 」で書かれた文章。)


  第15章:辰国離京・キコエギミ
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  キコエノ命( 聞得大君・昔脱解 )に銘じて沖縄を治めしめた。
  首里と云う。
  神祖が初めてここに降ったのでスサモリ( 神祖守 )の京と云った。
  この命はまた久高島に宮を作って住んだ。
  蘇塗といいこれを離宮( 琉球 )とした。
  命は生来異相で、頭に刃のような牛角をつけて、よく悪魔払いをした。
  蘇民将来の過越しの伝承を伝え、
  立柱、まじないなど諸々の鬼道二十四版の法を行った。
  今に次いで霊験があった。

  ※ 昔脱解( 昔氏始祖 )は、新羅第4代王でもある。
    南解次々雄( 新羅始祖:朴氏の実質的始祖で、沖縄狗奴国王:長脛彦 )の
    娘と結婚し、沖縄から( 東表国(豊国)を経て? )新羅に渡った。


沖縄の巫女:ノロ( 祝女 )の長(osa)を、聞得大君( きこえのおおきみ )と云う。
この聞得大君は、代々尚家の娘が司り、琉球王の后となった。
契丹蕭家の女は、契丹鬼道キキタエを代々司り、可汗の后となった。


先に「 契丹八部族 」と書いたが、その時最初の漢字変換で「 契丹鉢部族 」となった。
超~~~~面白い偶然現象だ!
それで、思い出した!

 鉢屋

は、山窩の一部族の別称で、契丹からやってきた人たちのこと。
主に、兵庫県の山間部に集中している。
この「 鉢 」を「 蜂 」に置き換えたのが、蜂須賀小六。
羽柴秀吉の「 墨俣 一夜城 」を造ったのがこの蜂須賀小六軍団。
秀吉は元々、この蜂須賀小六軍団の小僧っ子で、別名を鉢屋秀吉と言った。



関連情報


  nueq lab
  古代史の真相を解明した意外な手法
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  https://nueq.exblog.jp/19305114/
  2012年 10月 22日
  ・ 明治8年から18年間かけて改竄・捏造された日本史
   = 明治新興宗教( 皇国史観 )が
   今尚、大手振って教えられている
   ※ 重野安繹( やすつぐ:1827~1910 )
     https://ja.wikipedia.org/wiki/重野安繹
  ・ 日本史と世界史を根底から覆す鹿島・松重・石井史学
 

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