永六輔さんが、亡くなられた。月曜日夜にやっていた、TBSラジオ「六輔七転八倒九十分」に、今年の始めから出られなくなり、先月末で長く続いた冠番組がなくなって、案じていた。

   10代の頃、「土曜ワイドラジオ東京」を聴き始めてから、永さんの話に耳目が吸い寄せられた。永さんのラジオを聴き始めた動機は、よく覚えいないが、寄席演芸の世界に近い雰囲気を、感じたのだろう(ちなみに、高田文夫先生の「ラジオビバリー昼ズ」には、現代のお笑いの世界を感じていた)。

   永さんの話に、演芸以外の話も多く、それにも耳をそば立てた。例えば、不当表示と栗せんべい、ホスピス、老い、尺貫法、職人、芸能、阪神淡路大震災であり、交友録、テレビラジオの在り方、そして戦争…。
  それは、物事の現場を見ること、現場を良き伝統を守ること、忘れそうなことを胸に刻むことを、学んだ。

   月日が経ち、私は離れたラジオを、また聴き始めた。暫くして、永さんは体調を崩し始め、老いが著明になって来た。しかし、頭脳は益々冴え渡り、話題は世の中のきな臭い風潮が強くなり、声の大きく、要領の良い人が勝ちという雰囲気が増し、戦争に対する話題が増えた。私は、この様な時代の雰囲気に馴染むなかったので、膝を打った。

   永さんの姿を見たのは、2回。一度は、国立演芸場での講談会(平成3年の講談界分裂後、先代神田山陽先生、神田伯龍先生、そして師匠田辺一鶴が、顔を揃えたのだ)終演後の、国立演芸場前。「『土曜ワイド』聴いてます」と、声を掛けたら、丁寧にお礼を言われた。

   もう一回は、昨秋の山田雅人さんが、かたりで「永六輔物語」で、「永六輔物語」の最中に、山田さんと並んで座り、言いたいことがあれば、口を挟むという趣向。既に車椅子で、思うように話が出来ないものの、その洒落っ気が嬉しく、着ていた赤いシャツが、似合っていた。

   晩年は、小沢昭一さんや、加藤武さん、野坂昭如さんに先立たれ、また病もあり、つらかったろうなと思いながら、永さんは楽になれたのかなとも、思う。
   
   ラジオは、毒蝮三太夫さんのお弟子さん、はぶ三太郎さんが引き継いでいるから、それを楽しみにしよう。

   永さん、お疲れ様でございました。